患者の意向に規定された18世紀イギリス医療:Jewson "Medical Knowledge and the Patronage System in 18th Century England"(1974)

 とある医学史のゼミのアサインメントとして、医者と貴族の関係性に注目し、当時の医療について論じた文献を読みました。

N.D. Jewson, "Medical Knowledge and the Patronage System in 18th Century England," Sociology, 8, 1974, pp. 369–385.

 著者のジューソンは、18世紀イギリスにおいて発展した医学理論が当時の医師と貴族との関係性によって大きく規定されていたと指摘している。すなわち、疾病分類や診断法、病理学投薬など様々な場面において、過度なほど患者の意向を踏まえた医療が発展したのである。さらにジューソンは、マルクス主義科学史観に基づき、イギリスにおいて医学の科学化を遅らせた要因としてパトロンから医者に対するプレッシャーがあったと指摘している。
 まず、当時のイギリスにおける医師と貴族の間の非対称的な関係性が指摘される。医師の身分は、内科医・外科医・薬売りの三つに分類され、最も地位の高い内科医はジェントリであることが多かった。その内科医はジェントリとして自らの地位を保障するために、自分よりさらに身分の高い貴族階級の患者を獲得することに奔走していた。当然、医師は自らの地位が脅かされるのを恐れて、自分より身分の高い患者、すなわち貴族の気持ちに即した医療行為をおこなった。たとえば、まずはこの時代の疾病分類は、患者が訴える症状に基づいたものがとくに発展していった。次に診断法については、患者が言うままに、精神的な不調と身体的な不調を区別しない一元論的な診断がしばしばおこなわれた。その結果、この時代には心気症などの心因性の疾患として診断されることが多くなった。さらには病理学においてもまた、疾病の病因を身体組織に求めようとするような傾向はあらわれず、患者の見立てにあうような推測的な病理学が発展した。最後に治療の場面では、患者からお金をもらうことを正当化するために、ただ単に患者の自然治癒を待つのではなく、患者身体に積極的に介入する英雄的な治療法がおこなわれた。
 さらにジューソンは、18世紀のイギリスの医師たちが貴族階級の患者の影響を強く受けてしまっていたがために、医学の科学化を進展させることが出来なかったと指摘する。たとえば、19世紀初頭のフランスでは病理解剖学による医学の科学化が進められつつあったが、イギリスでは解剖学が医師の関心を集めることはなかった。というのも、当時のイギリス大衆は解剖という行為に対して忌むべき感情を抱いており、それに関わる医師もまた同様の感情をもって捉えられる恐れがあった。そのために、患者側からの評判を大事にするイギリス人医師にとって解剖は避けるべきことであった。その他にも、医師間の苛烈な競争が、自分の開発した医療技術を他人とは共有しないという、科学の公開性と対立する事態につながったし、そういった秘匿性のために、知識を共有するような医学者組織が設立されることもなかった。結局のところ、医師たちが貴族の機嫌を取らなくてはならなかったのは、当時の医師のキャリアが関係していた。すなわち、18世紀には患者が医師の良し悪しを判断するとき、その医師の立ち居振る舞いなどの個人的な特徴を大いに参考にしていた。というのも、この時代には医師の質を保証するような機関がなかったために、患者は学会などの権威に基づいて医師を選択することができなかったのであり、医師もまた自らを積極的に患者に売り込まざるをえなかったのである。

医学史の方法論・アイデンティティの複数性:Huisman & Warner “Medical Histories”(2004)

 とある医学史のゼミのアサインメントとして、医学史の概説書の序論を読みました。

Frank Huisman and John Harley Warner, “Medical Histories,” Frank Huisman and John Harley Warner, eds., Locating Medical History: the Stories and their Meanings, Baltimore: Johns Hopkins University Press, 2004, pp. 1–30.

Locating Medical History: The Stories And Their Meanings

Locating Medical History: The Stories And Their Meanings

 医学史にはこれまで一枚岩の方法論があったわけではない。本書の編者であるユイスマンとワーナーは、医学史を学問領域(ディシプリン)としてではなく分野(フィールド)と捉えることで、医学史が特定の時代や場所において、さまざまに活用されてきたことを明らかにする。医学史に一つの方法論やアイデンティティを求めるのではなく、それらの複数性を包摂するように認めることが、医学史という分野を実りあるものにすると言うのである。編者らは直線的で単一の医学史のストーリーを描くことを否定する。代わりに、医学史が18世紀末のドイツにはじまり戦間期に北米に伝わっていくのなかで、さまざまな方法論や目的が追求されていたことを示そうとする。
 まず、19世紀のドイツにおいて、医学史に教育目的と研究目的を見いだした二人の医師が紹介される。前者は、医学の歴史は医学生が医師として市民の義務を知るためのよき教材であるという考えである。この見方を提示したのは、ハレの医師であり植物学の教授であったKurt Sprengel(1766–1833)であり、彼は医学史創立の父とも知られている。医学の歴史は現在への教訓を与えると考えたSprengelは、医学史に実用的な目的を見いだしたのである。同じ時代には、医学史はこのような教育的な目的だけでなく、新たなタイプをつくりだすものとして捉えられることもあった。すなわち、ベルリンの医学者Justus Hecker(1795–1850)による歴史病理学(Historical Pathology)である。Heckerにとって、医学史は感染症の広がりといった今日的な医学の問題を研究するために役立つと考えていた。すなわち、中世から今日に至るまで病気の広がりのパターンを歴史的にみることで、将来の病気の予防や対応の参考にしようと言うのである。しかしながら、この新しい医学知識は、その思弁的な議論の仕方が批判されるようになり、18世紀中葉には歴史病理学の研究伝統は消えていく。その背景には、医学知識が生み出される場所が図書館から実験室へと移動したことがあげられる。こうして、大学で医学史を教える意義が疑問視されるようになり、医学から医学史を切り離そうという傾向が強まっていった。医学の科学化が進行するにつれ、一部の医者は医学史を反科学化・反物質主義のために利用しようとしたがそれもうまくいかなかった。なお、医学史におけるこういった複数の「伝統」は、本書の第一部に所収された論文で詳説されている。
 時代が下り、医学史に対する関心が医者の間で薄らぎつつあったが、研究と教育という二つの観点から医学史の自律性を主張する者が再びあらわれる。1905年にライプツィヒに新設された医学史研究所のポストについたKarl Sudhoff(1853–1938)は、医学史の学問的な基礎付けをおこなおうとし、自ら医学史のランケになろうと試みた。そのため、現在の問題と関連づけようとする医学史のプラグマティックな姿勢を、歴史主義的な立場から痛烈に批判したのである。アメリカでもジョンズホプキンス大学のFielding H. Garrison(1870–1935)がSudhoffのモデルをアメリカの医学史に適用しようとした。しかし、Sudhoffへの傾倒はアメリカの医学史家のなかでは必ずしも一般的ではなかった。たとえば、Henry Sigerist(1891–1957)は若い頃にSudhoffの文献学プロジェクトに参加したことがあったが、その頃から彼は歴史主義的な見方よりも社会学的な見方を好んでいた。Sudhoffが歴史資料の構築を目指していたのに対し、Sigeristはその資料群から哲学的・倫理的な問題の回答を引き出そうとしていたのである。彼が1931年に著した医学史概論は彼の教育への強い関心が詰まったものであり、アメリカでは医学史の教育的意義はその後半世紀にわたって継承されていくのであった。なお、1970年代から80年代に新しい社会史研究があらわれたことで、実用的な医学史を描こうとする姿勢は批判に遭うことになるが、その経緯は本書第二部に詳しい。さらにその後の文化論的転回を受けての医学史のとるべき方針が本書第三部で議論されている。

過去と現在の関連性に注目する医学史に向けて:Jackson, The Oxford Handbook of the History of Medicine(2011)

 とある医学史のゼミのアサインメントとして、医学史の概説書の序論を読みました。

Mark Jackson, “Introduction,” Mark Jackson, ed., The Oxford Handbook of the History of Medicine, Oxford: Oxford University Press, 2011, pp. 1–17.

The Oxford Handbook of the History of Medicine (Oxford Handbooks)

The Oxford Handbook of the History of Medicine (Oxford Handbooks)

 本書の編者であるエクセター大学の医学史家マーク・ジャクソンは、その序論のなかで医学史のアイデンティティについて考察している。本書のような医学史概論の書はこれまで多く生み出されてきた。たとえば、バイナムとポーターの1992年の概説書は、社会史・文化史の知見をふまえて医学史を描き出すことを試みた。また、ユイスマンとワーナーの2004年の著作は、単に医学知識・実践の内実を歴史的に描くのではなく、これまで医学史がいかに書かれてきたかに注目を促してた。各国の医学史の伝統や方法をみることで、彼らは医学史は一枚岩のものではないし、これまでそうであったこともなかったと指摘するのである。本書はこういった論点を引き継ぎながらも、過去の医学史の方法論を概観し、あるべき医学史の姿を描き出そうとするのではなく、医学史のアイデンティティは現在と過去の関連性を論じることができる点にあると指摘する。
 まず著者は、これまでの医学史研究が何を目指して探求されてきたかについて、二つの立場に注目して検討をおこなう。すなわち、科学者のトマス・マキオンと歴史家のジョン・F・ハッチンソンがそれぞれ出した見方である。マキオンは1970年にロンドンのウェルカム研究所で開催された医療社会史学会の年会で、医学史がやせ細りつつあると指摘した。医学史が現在の医学の状況と接点をもとうとしないために、難解な学問分野になってしまっていると考えるのである。そのためマキオンは、医療の社会史研究者は、現在の医学と社会の状況をより適切に描けるような歴史を叙述する必要があると主張する。それに対しロシア医療史を専門とするハッチンソンは、1973年にマキオンを痛烈に批判する論文を発表した。ハッチンソンは医学史が非生産的になりつつあることを認めながら、その主たる原因は研究者の古物収集癖にあると考え、現代の問題を解決するために医学史研究をおこなうというマキオンの動機を、非歴史的だとして喝破するのであった。
 この論争で問題となっているのは医学史の目的とは何であるかという点であり、医学史を現代社会の医療に関する問題と関連づけてよいかどうかということである。ここで医療社会史学会の歴史をみてみると、その学会はもともと現代の医療・保健制度を改善する手がかりとして医療の社会史に注目するものであった。その後、1976年に医療社会史学会・会長に就任した医学史家のチャールズ・ウェブスターは、医学史の専門性を守るために現在の医療政策に関連させた医学史の叙述を放棄するように訴えた。この見方は一見ハッチンソンのマキオンに対する批判と重なっているように思えるかもしれない。しかしウェブスターは過去と現在の関わりを否定したのでなく、むしろ注意深い歴史的考察が現代の問題との関連性を見いだすことができると考えていたのである。
 そこで著者が本書のキーワードとするのが、この「関連性」という言葉である。医学史研究の対象は、当時の社会的状況に影響されているのであり、当時の医療はそれらと関連づけて分析されるべきである。その点について言えば、医療の社会史研究者はこれまで多く議論してきたし、知識社会学者も医学知識の社会的拘束性について分析してきた。一方で、医学史の対象は現在にそのインパクトを残しているものもあるため、医学史を医療政策学に役立たせることができる。たとえば、2002年に設立された「歴史と政策ネットワーク」は、医学の歴史研究からある時期の医療と社会の関係性のパターンを踏まえることで、医療政策を今日考えていく際にそれらを参照させようという主張をおこなっている。その逆に、医学史家は現在の医療政策学での論争をふまえたり、人口動態や疫学などの計量的な手法を自らの研究にも適用することに積極的でなさすぎるという声もあがっている。たとえば、今日の医療システムを評価するのに使われる健康影響評価(HIA: Health Impact Assessment)を、医学史にも取り入れてはどうかとロバート・ウッズは提案している。以上をまとめると、歴史学の作法に則った医学史研究と、医療政策学的な問題と関連させる医学史研究は両立するはずであり、その両立を目指す論文によって本書は構成されている。

工作機械による互換性部品の開発というアメリカ式製造方式:橋本毅彦『「ものづくり」の科学史』(2013)#2

橋本毅彦『「ものづくり」の科学史――世界を変えた《標準革命》』講談社学術文庫、2013年、54−109頁。

 「第二章 工場長殺人事件を越えて──「アメリカ式製造方式」の誕生」では、駐フランス公使時代にフランスの標準化技術をみて驚いたジェファーソンがそれをアメリカに持ち込み、アメリカ独自の製造システムが誕生する経緯が示される。第一章でみたフランスでは、標準化に関する発想は生まれていたが、そういった技術が現場で労働者たちによってうまく進められたわけではなかった。なぜなら、労働者たちが標準化技術を実践するには手作業だけでは難しく、機械の助けを借りる必要があったからである。それを実行しえたのがアメリカであり、その中心地となったのがマサチューセッツ州スプリングフィールド工場(1794年設立)と現在のウェストヴァージニア州のハーパースフェリー工場(1798年)という二つの工廠であった。
 当初、それぞれの工廠で互換性をもつ銃の部品の製造が進められたが、その結果は明暗を分けた。スプリングフィールドでは技術者トマス・ブランチャードが開発した機械によって、これまで手作業では1時間かかっていた銃床の切削加工作業がわずか1分でできるようになり、作業の効率化に成功したのである。一方のハーパースフェリーでは、前近代的な労働形態が維持されたままであり、工場の機械化・近代化が遅々として進まなかった。そんななか、新たにハーパースフェリーの所長に就任した人物が、工廠の規律化を押し進めようとした結果、労働者から反発に遭い、殺害されるという事件にまで発展してしまう。そのため、これを機にハーパースフェリーの新たな所長として規律を重んじる軍人が招聘され、専用工作機械の導入、機械による互換性部品の製造が進めらたのであった。
 その後、両工廠では互換性部品の製造技術が発展し、その技術は周辺の民間工場にも伝播していき、全米中に広がっていく。「専用工作機械」による「互換性」のある部品をつくるという「アメリカ式製造方式」はここに完成をみる。イギリスの技術史家ロルトはこのような事態に「歴史の皮肉」を読み取っている。というのも、独立戦争を契機にアメリカへの機械輸出を禁止したイギリスであったが、アメリカは今度はフランスから技術を学びながら独自の製造技術をつくりあげ、その後、クリミア戦争開戦を目前にしたイギリスはその製造方式が是が非でも導入すべきものになっていたからである。
 「第三章 工廠から巣立った技術者たち──大量生産への道」では、アメリカの二つの工廠で生まれた標準化技術が、工作機械技術の発展に即して、いろいろな製造技術に応用されていく過程が示される。しかしそれを示す前に、そもそもなぜ産業革命発祥の地イギリスが、後進国アメリカの開発したコルト式拳銃およびその製造方式に驚嘆することになったのか、そしてイギリスではなぜそれらが生まれなかったのかが問われる。一つに、イギリスの優秀な銃製作者たちは、発注が変動しやすい軍からの兵器製造を請け負うことを避け、貴族から求められる狩猟用のオーダーメイド銃を精密につくりあげることを好んでいたことがあげられるだろう。また別の理由としては、ヨーロッパ諸国ではラタイド運動にみられるような、労働者の機械への反発が根強く、一方のアメリカでは労働力が不足していたため、機械を活用せざるを得なかったという状況があげられる。後者の見方は、ロンドン万国博覧会の2年後におこなわれたニューヨーク万国博覧会を視察したイギリス人ウィットワースも述べているものであり、のちの経済史家の間でも採用される古典的な見方である。ただしここで注意しなくてはならないのが、アメリカ流の銃製造方法がそのままイギリスで広がっていったわけではないということである。もちろん、クリミア戦争時にはイギリスはアメリカ式製造法に大いに注目したが、1858年に戦争が終結すると、互換性技術に基づく銃の大量生産計画は中止となり、市場ではこれまでのような伝統的な銃の需要が再び高まったのである。
 今一度話はアメリカに戻り、スプリングフィールド工廠によって生み出された互換性技術が、1830年代から南北戦争開戦までに、その周辺に広がっていくことが示される。「工廠方式」と呼ばれるこの技術は、銃を製造する工場だけでなく、その他の機械・道具を製造する工場、さらには民間企業にまで採用されて行くことになる。たとえば、ウィルコック&ギッブス社は工廠方式に熟達した他企業の技術者を招聘することで、ミシンをつくるための工作機械の製造を押し進めた。さらなる例として、自転車を工作機械を用いてつくる方法を開発したポープ社があげられる。それらからやや遅れて1903年に設立されたフォード社は、自転車産業でうまれていたプレス加工技術を活用し、自動車製造の機械化、互換性のある部品の開発を進めた。さらにフォード社は、流れ作業による製造方式を採用することで、自動車を効率よく、大量生産する方法を開発したのであった。こうして1910年にフォード社はT型車の大量生産を開始することになる。

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アメリカン・システムから大量生産へ 1800‐1932

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工作機械の歴史―職人の技からオートメーションへ

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七年戦争とフランスにおける互換性のある兵器開発:橋本毅彦『「ものづくり」の科学史』(2013)#1

 とある科学史の授業のアサインメントとして読みました。なお、本書は『<標準>の哲学――スタンダード・テクノロジーの三〇〇年』(講談社メチエ、2002年)の改訂版です。

橋本毅彦『「ものづくり」の科学史――世界を変えた《標準革命》』講談社学術文庫、2013年、1−53頁。

 1851年にイギリスで開催された万国博覧会で、アメリカのサミュエル・コルト(1814−1862)が製作した回転式自動拳銃はその見物客を驚かせた。というのも、それが工業機械を用いて、同一の部品から簡単にかつ大量に銃をつくる方法を提示したからである。今では部品の標準化・互換性というのは当たり前のようになっているが、18世紀にはまだ機械製品はそれぞれの個性をもっていたのであり、職人が一つ一つ時間をかけてつくるものであった。それが19世紀になるとフランスの銃製造を通じて部品の標準化が進められ、20世紀には「互換性」をもつ部品が大量生産されていくことになる。本書は、このような標準化の歴史を、多くの機械製品の事例を提示しながら描いたものである。
 「第一章 ジェファーソンを驚かせた技術──標準化技術の起源」では、コルト式拳銃にみられる部品の標準化技術の背景となったフランスの銃製造技術の歴史が示される。フランスが銃を構成する部品の互換性に注目するようになったのは、プロイセンとの間で勃発した七年戦争(1756−1763年)がきっかけであった。というのも、兵力が半分であるにもかかわらず、迅速に軍隊を移動させるプロイセンを前に、フランス軍は敗北を喫してしまったのである。これにより、戦争においては軍隊・武器の機動性が重視されるようになり、大きな大砲よりも軽量で可動性の高い大砲をつくることが待望されるようになった。
 そういった新たな兵器体系をつくったのが軍事技術者のグリボーヴァル(1715−1789)である。彼はまず軍事製品そのものの標準化に取り組み、その後、それらを構成する部品の標準化をおこなった。しかしそれ以上に重要なのは、彼が互換性のある部品製造にも着手した点である。そもそも戦場では大砲というのはそれを運ぶ砲車とセットであるが、軽量の大砲であると発射の反動で砲車がより後ろに移動してしまい、機動性という軽量の大砲のメリットが損なわれてしまう。その解決策としては、たとえば砲車をより頑丈にすることなどが考えられるが、グリボーヴァルはむしろ、砲車を修理しやすくしようという発想をとったのである。すなわち、砲車の各部品に互換性をもたせることで、修理のしやすさを追求したのであった。
 その後フランス革命が起き、フランスではパリ市民を総動員した互換性をもつ銃の製造がおこなわれることになる。歴史家ケン・アルダーが「18世紀のマンハッタン・プロジェクト」と呼ぶこのプロジェクトは、しかしながら、合理的な設計生産を提示するエリート技術者のねらいとは裏腹に、その新技術の導入を放棄する市民労働者を前に、失敗に終わるのであった。

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イガル・ガリリ「物理的知識の表象における科学史科学哲学の関わりと、その枠組としての文化的知識内容」科哲特別講演(2014年4月9日、於:東京大学駒場キャンパス)

Igal Galili, "Cultural Content Knowledge as a Framework of Involvement of History and Philosophy of Science in Representation of Physics Knowledge," Special Lecture at Katetsu, The University of Tokyo, 9 April 2014.
(イガル・ガリリ「物理的知識の表象における科学史科学哲学の関わりと、その枠組としての文化的知識内容」科哲特別講演、2014年4月9日、於:東京大学駒場キャンパス

 講演者のイガル・ガリリ教授(ヘブライ大学科学教育センター)は、元々は理論物理学者で、最近では科学史・科学哲学のマテリアルをつかった科学教育の重要性を訴え、それに即した彼オリジナルの教育方法を提唱している人物です。ハソク・チャン氏らとともに、アジアにおける科学教育のあり方について積極的な発言をおこなっています。
 これまでの高校や大学での科学教育では、科学の法則や理論あるいは問題を解くことばかりが教えられてきました。それに対しガリリ氏は、科学の本質をもっと教えるべきであると言います。それは、科学知識をnucleus/body/peripheryという三つのタイプに分類し、それぞれの特徴を学ぶことに他なりません。nucleusは科学の法則やパラダイムを指し、bodyはそれの応用的な事項を指します。これら二つは、イムレ・ラカトシュがハードコア(hard core)と防御帯(protecting belt)と呼んだ概念と比較的近いものです。それに対し、ガリリ氏がとくに注目を促すのが、科学知識のperipheryについてです。このタイプの知識は、ある事象に対する一つの定まった知見ではなく、さまざまな解釈のされ方に注目したものです。それはたとえば、ある本に書いてあるテキストの内容は一定であっても、それがさまざまな声に出して読まれるような多様性をもっているのです。
 このような知識の特徴付けをおこなったあと、ガリリ氏はとくにこのperipheryを学生に教えることに意義があると主張し、そのときにこれまで科学史・科学哲学が明らかにしてきた事物が大いに役立つと指摘しています。科学教育の場面において科学史の事例を利用することは、今ではやや古くさいタイプの指導方法になっています。しかし実際に科学教育をおこなうときは、科学史・科学哲学における基本的ないくつかのイベントに注目することは、科学の本質を学ぶのに大いに役立つのです。ここで注目されるイベントは、「小旅行(excurse)」という彼オリジナルのアイディアによって概念化されます。この概念では、ある人物が提唱した理論や法則の内容を単に紹介するのではなく、その人物がこれまで同様の問題を取り扱った人物や理論に対し、どのような評価・解釈を与えているかにとくに注目を促すのです。それはたとえば、運動について、古代には動因を外部に求めていたのが、中世にインペトゥスのような内なる動因を想定するようになり、初期近代に動因そのものが否定され、現代に古典的な運動概念が否定されていくような変遷を、理論間のつながり・対話に注目することなのです。こういった教育法を総称して、ガリリ氏は"cultural content knowledge"アプローチと呼び、その普及を訴えるのでした。

バシュラールとパストゥールにおける臨床医学の科学性:カンギレム「十九世紀における「医学理論」終焉への細菌学の効果」(2006)

ジョルジュ・カンギレム「十九世紀における「医学理論」終焉への細菌学の効果」『生命科学の歴史――イデオロギーと合理性』杉山吉弘訳、法政大学出版局、2006年、61–89頁。

生命科学の歴史―イデオロギーと合理性 (叢書・ウニベルシタス)

生命科学の歴史―イデオロギーと合理性 (叢書・ウニベルシタス)

 かつてフーコーは『知の考古学』において、知の歴史上のいくつかの閾を取り上げてみせた。それはたとえば、実定性、認識論、科学性、形式性などのレベルにおける知の転換についてである。それに対しカンギレムは、フーコーが明示的に区別することはなかった2人の医学者に注目する。すなわち、実験医学のバシュラールと細菌学のパストゥールである。カンギレムは両者の間に、臨床的な科学性への貢献の有無において大きな断絶があることを指摘しようとするのである。彼らの前に、医学史上最も効果ある臨床的成果を獲得していたのは、ジェンナー(1748–1817)の牛痘法であった。しかし、ジェンナーの発想はその後のバシュラールといった医学者には理解されなかった。カンギレムは本章で、それから一世紀を経た後、パストゥールらが医学者ではなく化学者の協力を得て、ジェンナーの考えを実効的なものへと作り上げていく過程を描き出している。
 18世紀終わりから19世紀初頭にかけて、フーコーが「臨床医学の誕生」と呼んだ医学史上の大転換が起きる。古代から18世紀中頃に至るまで、医学をめぐる理論・体系は何度も移り変わっていき、一つの理論に医学が収斂することはなかったし、医療実践のレベルでも劇的な成果を生み出すものはあらわれず、18世紀には治療をあきらめ、ヒポクラテス的な無害の原則に回帰する現象さえ起こった。しかし18世紀末から19世紀初めに、治療的懐疑主義の合理的なアプローチがあらわれたり、生理学が古典解剖から解放され、ひとつの自立した学問となるなどの大きな変化が起きたのである。
 その新しい医学理論が生まれる背景には、当時、ヨーロッパの医学者たちを支配した医学体系であり、史上最後の医学体系を提示したスコットランド人医師のジョン・ブラウン(1735−1788)の存在が大きかった。ブラウンは『医学原論 Elementa Medicinae』(1780年)のなかで、「生命とは一つの強いられた〔不自然な〕状態である」、「〔医師は〕決して無活動であってはならず、自然の力を信頼するな。自然は外部の事物がなければ何もなしえない」といった言葉を残し、新たな病因観および医師の治療的役割について論じた。フランスでは、ブルセ(1772–1838)、マジャンディ(1772–1838)、ベルナール(1813–1878)らの生理学的医学あるいは実験医学がその考えを受け継いだ。たとえばマジャンディは、医学の場所を病院から実験室に、実験対象を人間から動物に、有機体に変化をもたらす要因をガレノス(生薬)調製から薬化学に変えた。またベルナールは、実験医学の理論にはもはや科学的革命は存在しないと断言し、その科学が漸進的にかつ動揺なしに増大、進歩すると主張した。しかしながら結局、ベルナールらの実験医学のプロジェクトはイデオロギーレベルに留まっており、臨床上の成果につながることはなかった。事実、マジャンディは治療については懐疑主義的な立場を保持し、これまでの医師となんら変わりない治療観を示していたのである。
 18世紀末から19世紀はじめにかけて、ベルナールらの実験医学のようにかつてないほど洗練された医学理論が提示されたにもかかわらず、その一世紀前に提示されたジェンナーの牛痘法ほどのインパクトのある臨床医学はこの時代には生み出されず、それに対する正当な評価も与えられなかった。結局、ジェンナーの発想を受け継いだ臨床医学があらわれるのは、医学とは別の分野、すなわち化学分野における新たな療法の誕生を通じてであった。すなわち、1870年代からのドイツ化学工業の進展によって、医学史上初めていかなる医学理論からも自由で、実効的な治療法である化学療法が生み出されたのである。その代表者はドイツのエールリヒ(1854–1915)であるが、彼はベーリング(1854−1917)による血清療法に着想を得て、化学合成物を使った療法を開発した。病人の血清を人に投与することで病気を予防するという新たな免疫学的知見に基づき、ある微生物の毒素に特異的な親和性をもつ化学合成物をつくったのである。さらにこの時代には、アニリン染料にみられるように、特定の化学構造に色をもたせ、新たな視覚表象が可能となっていた。こうした科学・産業界での発展が、ジェンナーの牛痘法に接続しうる化学療法をもたらしたのである。
 エールリヒの化学療法にはバシュラールらが追い求めたような実験医学の特徴を見出すことができるかもしれない。しかし化学療法の発想は、バシュラールらの実験医学というよりむしろ、パストゥールやコッホの細菌学の考えに近い。というのも、パストゥールはこれまでの医学的知見に基づいてではなく、同時代の化学的知見に多くを負うことで医学思想上の革命をおこなったからである。パストゥールは、光学異性体に関する実験から、微生物の特性と分子の構造的非対称性を関係づける。かつてマジャンディが、場所・実験対象・有機体に変化をもたらす要因という三つのレベルで新たな試みをおこなっていたが、パストゥールはそれに第四の契機を加えたのである。すなわち、生体の病理学的問題を生体上に見いだすのではなく、化学的に純粋な幾何学的形態である結晶上に求めたのである。ここにおいて、細菌、発酵、病気が同じ統一理論のなかで結びつけられ、マジャンディやベルナールらが創出していた医学の諸モデルは「イデオロギーの最高天」に追い払われることになったのである。

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