自民族の起源および王国の歴史を知るためのルーン学研究:小澤実「ゴート・ルネサンスとルーン学の成立」(2014)

 とあるインテレクチュアルヒストリーの授業のアサインメントとして読みました。

小澤実「ゴート・ルネサンスとルーン学の成立――デンマークの事例」『知のミクロコスモス――中世・ルネサンスのインテレクチュアル・ヒストリー』中央公論新社、2014年、69-97頁。

 ルネサンス期における古典語世界に対する関心の高まりは、西ヨーロッパにとどまらず北ヨーロッパにも広がっていった。本稿では、これまでのルネサンス研究では等閑視されてきたスカンディナヴィアに注目し、そこでのルネサンスの展開について検討している。具体的には、スウェーデンデンマークルネサンスで最も関心を集めた「ルーン文字」について、当時の知識人たちがいかなる動機あるいは方法でその研究に邁進していたかが示される。
  スカンディナヴィアでは、西欧的なルネサンスとはやや異なるルネサンス、すなわちゴートルネサンスが発生した。15–16世紀のスカンディナヴィアでも、西欧のように古代古典の復興という人文主義的な思想が広まっており、聖書や古典テクストの検討がなされた。しかし、スカンディナヴィア、とくにスウェーデンにおいて特徴的であったのは、自らの過去をゴート人と結びつける思想が生まれた点である。4世紀にローマ世界へ進出したゴート人は、のちにイタリア半島イベリア半島にそれぞれ王国を築いたとされ、彼らをスカンディナヴィアと結びつける考えが15世紀中頃までに広まっていったのである。この考えを大いに発展させたのがスウェーデンのマグヌス兄弟で、彼らは古代スカンディナヴィアのアイデンティティとしてルーン文字に重要な位置づけを与えた。その後、スウェーデン国王の官職をつとめていたヨハンネス・ブレウス(1568–1652)がルーン学研究を学術的に発展させ、ウプサラ大学のウーロヴ・ルドベーク(1630–1702)が愛国主義的な性格を付与しつつ研究をさらに進めた。
 では、スウェーデンの隣国デンマークでは、ルーン研究はどのように進められたのだろうか。デンマークにおいてルーン研究が活発になった最大の契機は、スウェーデンのようなゴート人の再発見ではなく、16世紀末のイェリング石碑の再発見であった。そもそもデンマークでは自国の起源をゴートに結びつける発想はほとんど取られていなかった。 代わりに、1586–1587年に発見されたイェリング石碑に、デンマークの現王朝との関わりを示すルーン文字が刻まれていたという事実が、デンマーク知識人をルーン文字研究に駆り立てることになった。その石碑にいち早く目をつけたのが、南ユトランドの統治代行を委任されていた知識人ハインリヒ・ランツァウ(1526–1598)であった。ランツァウは王室の祖を記念するイェリング石碑に強い関心を示し、人文主義的精神に基づき、イェリング墳墓の銅版画を作成するなどした。
  デンマークのルーン学研究において金字塔を打ち立てたのが、宮廷侍医ならびにコペンハーゲン大学医学部教授をつとめていたオラウス・ウォルミウス (1588–1654)であった。医師として働く傍ら、ウォルミウスは古遺物研究をおこなっていた。いやむしろ、初期近代の「驚異の部屋」を象徴するような彼の博物館が、のちのコペンハーゲンにある国立博物館になったことに鑑みると、彼は古遺物研究者としての方が有名かもしれない。ともあれ、ルーン文字にも関心を示したウォルミウスはルーン研究に関する書物を4冊著しており、そのなかでも『デンマークの古遺物に関する六書』(1643年)はルーン学の基礎を築き上げた分析が所収されている点で最重要著作である。しかしこの書は、これまでの研究において古遺物研究という広い観点から分析がなされるばかりで、ルーン学という観点から検討されたことはなかった。そのため、本論文はこの書に収録されたイェリング石碑に関する項目について、社会史的な観点から4つの特徴を抽出しようとする。第一に、ウォルミウスが彼の前にルーン学研究をおこなっていた学者たちを外国人として規定し、彼らの知らないであろうデンマークに固有の歴史書を引き出しながら、テクスト批判をおこなっている点である。第二に、ヨーロッパ中の知識人との文通によって新知識を獲得し、その知見をその書物に取り入れた点である。とくに、デンマークの間接的な支配下にあったアイスランドの知識人との交流が最も盛んであり、アイスランドの歴史書を著したアルングリームル・ヨーンソン(1568–1648)とはかなりの数の書簡を交換している。第三に、テクストだけではなく、銅版画によるルーン石碑の図版をその書物に多数収録した点である。この点は従来のルーン学研究には見られない特徴である。なお、ウォルミウスが図版を収録することができたのには、17世紀の古遺物研究において図版の提示が標準的な分析法となっていたという背景をあげることができるだろう。第四に、国家システムを利用して国内のルーンに関する情報を網羅していた点である。たとえば1622年には、デンマークノルウェーの管轄下教区で発見された古遺物の情報を、国王の命によってコペンハーゲンに集めさせている。以上のような、さまざまな次元の知識・情報のネットワークを活用し、ウォルミウスはルーンに関する基礎的研究をおこなったのである。

重視され、改革が模索され、排除されていく占星術:ラトキン「ヨーロッパ史のなかの占星術」(2014)

 とあるインテレクチュアルヒストリーの授業のアサインメントとして読みました。

H・ダレル・ラトキン「ヨーロッパ史のなかの占星術――中世・ルネサンスから近代へ」(菊地重仁訳)『史苑』74(2)、2014年、176–207頁。
http://id.nii.ac.jp/1062/00009135/
※ 上記リンクから無料閲覧・DL可能

 中世・ルネサンス期のヨーロッパの大学では、占星術が自由学芸のなかでも重要な科目であると位置づけられていた。13世紀のパドヴァ大学では、医学教授のピエトロ・ダバーノによって、医学を学ぶ者は占星術を学ぶ必要があると述べている。医学課程においてのみでなく、数学課程ならびに自然哲学課程にいおいてもまた占星術は重要な役割を与えられた。このような傾向はパドヴァ大学に留まらず、ボローニャ大学など他の大学でもみられ、17世紀に入るまで続いていく。
 しかし、17世紀に入ると占星術を改革しようという運動が本格化していく。そのような運動の萌芽は、すでに15世紀のピーコ『予言占星術駁論』(1496年に出版)にみられる。16世紀には、ピーコの批判を部分的に受け継ぎながら、ティコ・ブラーエやケプラーは、占星術天文学的・自然哲学的基盤の改革に取りかかっている。17世紀になると、フランシス・ベイコンが『諸学の振興について』(1623年)において、帰納法的方法を占星術に導入することで、その改革を真剣に提案している。ベイコンはまず占星術を、回帰占星術・出生占星術・選択占星術・質問占星術の四つに分類し、回帰占星術以外は根拠がないものとして喝破した。そしてベイコンは、占星術によって予言が可能であるとは認めつつも、その予言をより良いものとするには、過去の歴史を綿密に調査し、そこから規則を導き出す形で予言すべきだと論じたのであった。
 16–17世紀によって改革が提案された占星術であったが、そういった努力の甲斐なく、18世紀に入ると大学カリキュラム、具体的には数学・自然哲学・医学課程から除外されていくことになる。まず数学分野においては、数学教育を発展させた人物として著名なクラヴィウス(1537–1612)によって、数学教育から占星術が除外された。しかし、これが完全に数学と天文学の解離であったかと言われれば必ずしもそうではなく、同時期のイタリアやイングランドの大学では依然として数学課程において天文学が講じられた。天文学の数学課程から除外が明確化したのは18世紀に入ってからである。たとえば、エウスタキオ・マンフレディ(1674–1739)は『天の動きについての天体位置表』の序論において、そこから占星術的性格を取り除いている。次に自然哲学について。占星術廃絶論者であったニュートンデカルトに影響を受けたジャック・ルオー(1620–1675)は、『物理学論考』(1671年)において自然哲学から占星術を明確に除外した。その翻訳は世界中へと広がり、1740年代にはハーバード大学、イェール大学、ケンブリッジ大学などでも教科書として採用された。最後に医学においては、他の課程に比べると占星術は生きながらえたといえる。たとえば、ニュートンのかかりつけ医であったリチャード・ミードは『太陽と月の影響について』(1704年)などにおいて、機械論的医学の理論と占星術的性格をもつガレノス医学の実践とを接合してみせている。このような過程を経て、占星術は大学カリキュラムから排除されていくことになるが、その一部は神秘学と結びつき、18世紀になっても民衆文化のうちに生き残ることができたものもあった。

属領と植民地主義という支配・従属関係の連続性:塩出浩之「北海道・沖縄・小笠原諸島と近代日本」(2014)

塩出浩之「北海道・沖縄・小笠原諸島と近代日本」『講座 日本歴史 15 近現代 1』岩波書店、2014年、165–201頁。

近現代1 (岩波講座 日本歴史 第15巻)

近現代1 (岩波講座 日本歴史 第15巻)

 「植民地」という言葉が使われるとき、近代日本のそれとして真っ先にあげられるのは台湾や朝鮮といった国々であろう。そこには、植民者と原住民の間に支配・従属関係が形成されている。一方、北海道や沖縄、さらには小笠原諸島が植民地と捉えられることはあまりなく、それらはむしろ本国の「属領」として統治されていたと捉えられるべきだろう。そのため、植民地と属領はしばしば別個に捉えられるが、ともに本国とは異なる法的領域として位置づけられていたことを踏まえると、両概念はかなりの程度重なる部分があった。しかし、これまでは両者を関連づけて論じる議論はない。そこで本論文は、北海道・沖縄・小笠原諸島という三つの地域に注目し、植民地と属領との間の相関を示そうとする。著者はまず、それら地域が属領から本国に編入される過程を描き出す。本国編入が完了したということは、支配・従属関係がなくなるということである。しかしながら著者はこれら地域の間で支配・従属関係はなくなることがなかったと言う。つまり、「植民地主義」という支配・従属関係がそこにはいぜんとして残っていた指摘するのである。
 1889年の大日本帝国憲法とともに制定された衆議院議員選挙法において、この三地域が代表選出除外地域として定められた。つまり、行政的にはこの三地域は本国(本州・四国・九州など)とは異なる地域として捉えられており、本国の属領として統治されていることを意味している。そのような属領統治体制は日清戦争を経て再編されていく。1899年に元沖縄県技師の謝花昇(1865–1908)が沖縄県への衆議院選挙法施行を帝国議会に請願したことをきっかけに、1900年には北海道・沖縄に選挙区が設置された。その後、三新法が北海道・沖縄でも制定されていくことで、北海道は1903年までに、沖縄は1919年までに本国編入を果たし、属領という支配・従属関係から離脱することができたのである。一方、1945年4月までには衆院選挙法の施行範囲が台湾・南樺太・朝鮮などの植民地にまで広がったが、小笠原諸島は敗戦まで本国に編入されることはなく、属領のままであった。
 本国編入によって、属領という支配・従属関係が解消された沖縄や北海道であったが、そこでは植民地主義というまた別の支配・従属関係が生成していくことになる。北海道では本国編入と並行して、アイヌに対して大和人の言語や生活習慣に同化するような施策が進められたし、沖縄でも本国編入後から同様の同化政策が進められた。さらに本国編入がなされず、属領のままであった小笠原諸島では、1920年以降日本の軍事植民地化が進められ、それまで欧米系住民のためにおこなわれていた英語教育も1940年前後までには禁止され、日本名への改氏名も強制されることになる。このような同化教育や旧慣調査というのは、植民地の台湾・朝鮮などでも進められた。つまり、沖縄・北海道・小笠原諸島の例からわかるように、属領統治と植民地主義との間には連続性があったのである。

洋学史学会2014年度大会「洋学史研究の再生」(2014年7月13日、於:電気通信大学)

 洋学史学会の本年度の大会に参加しました。当日は、ミヒェル・ヴォルフガング先生による「洋学史の諸課題と展望について」という基調講演にはじまり、中村士・渡辺政弥・塚原東吾・平野恵の四氏による問題提起がなされるなど、非常にもりだくさんの内容でした。そして、『洋学』(21号、2013年)の刊行報告もおこなわれました。以下では、独学史がご専門の渡辺政弥氏による「2000年代以降の独学史研究を俯瞰して」という報告を紹介します。

渡辺政弥「2000年代以降の独学史研究を俯瞰して」洋学史学会2014年度大会「洋学史研究の再生」、2014年7月13日、於:電気通信大学
HP:http://d.hatena.ne.jp/yogakushi/20140710/1405006395

 かつて松田和夫は、その研究対象によって独学史研究を4つに分類した。その特徴は、ドイツにおけるヤパノロギー(日本学)の視点から分類した点である。第一期は、まだ日本が伝説・未知の国であった時期である17世紀までで、ヨーロッパに日本をはじめて体系的に紹介したケンペル (1651–1716)などがその代表である。第二期は、日本が現実の国として認識されはじめた時期で、シーボルト(1796–1866)を中心とする 18–19世紀が主に注目される。第三期は、日本が学問対象となっていく時期で、帝大で教鞭をとった日本学研究者・フローレンツ(1865–1939)から1945年 までが対象である。第四期は、日本が経済大国となった1957年以降から現在まで続く時期であり、その主たる担い手は日系企業で働くドイツ人などとなる。
  報告者は、この分類に基づきながら、とくに第一期・第二期の先行研究について概観する。まず、第一期のケンペルについては、大島明秀の『「鎖国」という言説――ケンペル著・志筑忠雄訳『鎖国論』の受容史』(2009年)や小川小百合の「ヴァリニャーノの適応主義と神道――ケンペルの神道理解と対比してみえるもの」『キリスト教史学』(2011年)がとりわけ傑出した研究であると紹介している。このとき、報告者はケンペル研究の研究史上の意義を単に説明するのではなく、彼に関する研究が一般の人にも関心をもってもらえる可能性があると指摘する。たとえば、日本は無宗教の国であるとしばしば言われるが、そのような言説の始原をケンペルの 『日本誌』のなかに見出すことができるのである。
 第二期のシーボルトについては、古くは日独文化協会の編集による『シーボルト研究』(1938 年)が、最近では石井禎一らによる『新・シーボルト研究』(全二巻、2003年)や、この日出版されたばかりの『洋学』(21号)に掲載された沓澤宣賢によるサーベイ論文などがあげられる。シーボルトは日本ではもっとも研究されている外国人の一人であるが、海外ではやや研究は少なく、また彼の思想に関する分析も手薄である。このことは、ケンペル研究が海外でも啓蒙主義研究の一環(実際、ケンペルの思想は部分的にモンテスキューにも影響を与えていたという)として盛んにおこなわれている事態とは対照的である。以上より、シーボルトという学問的に非常に研究されている人物であっても、研究されるべき主題はまだ残っていると報告者は指摘するのであった。
 さらに報告者は、蕃書調所という学問機関に注目する。このときもまた、報告者はその研究史上の意義だけでなく、今日の問題と関連づけようとする。報告者は大学などでドイツ語を教えているが、その際にしばしば、あまり語学に関心をもたない大学生に対していかにドイツ語を教えればよいかを考えさせられていると言う。このとき、蕃書調所でドイツ語がいかに講じられ、学生がどのような反応をしていたかを知ることは、現在の大学での第二外国語教育と何らかの関連性を得られるかもしれない。
 最後に、「洋学史研究の再生」という今回のシンポ ジウムの主題に関して、報告者はいくつかの論点を提出する。しばしば主張される比較研究の意義を報告者は認めつつ、その具体例として、たとえば、中国に洋学がいかに伝わり、受容されたかを研究することもまた、洋学史研究に含めることができると指摘する。つまり、洋学史研究とは日本における洋学の研究にとどまらないのであり、その特徴こそが洋学史研究が有している可能性なのだと報告者は言うのであった。そのため、今後さらに学会を発展させていくためには、何よりも、日本国内にとどまらず、世界中の研究者同士の情報共有の活性化が重要であるとして、結んでいる。

関連文献

新・シーボルト研究〈1〉自然科学・医学篇

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理想世界という極の途上としての文明:苅部直「文明開化の時代」(2014年)

苅部直「文明開化の時代」『岩波講座 日本歴史 15 近現代1』岩波書店、2014年、241–267頁。

近現代1 (岩波講座 日本歴史 第15巻)

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 「文明開化」の一般的なイメージといえば、それはまずもって「西洋化」であると捉えられることが多い。たとえば、福沢諭吉の『西洋事情 外編』(1868年)は、英国のジョン・ヒル・バートン『政治経済学』(1852年)の議論を参考にして「文明開化」という言葉を用いており、その言葉を明治初期に流行させる契機となった。ここで著者は、文明開化という言葉を、文明と開化という二つに分けて分析を加えることで、その言葉が必ずしも「西洋化」とイコールではないことを指摘している。
 まず、「文明」という言葉は、『政治経済学』に出てくる"Civilization"という用語を福沢が訳出したものである。ここで注意しなくてはならないのが、福沢がそれを西洋の産物として捉えていない点、さらに、それを手放しに褒め称えてはいない点である。事実、この言葉自体は儒学経書に由来する。福沢は洋の東西を問わず、文明を人間の知恵と徳の両面が向上する過程であるとみなしていた。たとえば、文明が進んでいるとされる西欧においても、現に戦争は絶えずおこなわれているのであり、西欧もまた物質的な向上だけでなく、道徳的な向上がさらに必要だと福沢は主張する。そのため、「文明」という観点からは、西洋も日本(そして中国・朝鮮)もともに、世界平和という理想世界の極度への発展の途上に過ぎないと捉えられるのである。
 一方、「開化」という言葉もまた明治初期には一般庶民の心を捉えており、とくに洋学派知識人によって"Civilization"という言葉と重ね合わされながら好意的に受け入れられていった。たとえば森有礼は、開化を人間の知恵の活用によって生活がより便利なものになっていくものとして捉えている。しかし、文明と開化を主に物質的な充足という点のみによって捉えられてしまう風潮を、おそらく福沢は危惧していた。なぜなら、福沢は文明を知恵だけでなく徳の向上であると定義していたのであり、文明の極度に達するためには知識の発展と同時に道徳心の向上も目指さなくてはならないと考えていたからである。そのためか、福沢は『西洋事情 外編』では「文明開化」という言葉を用いていたのに対し、『文明論之概略』(1875年)では文明という言葉を開化という二語から引き離して用いている。このとき福沢は、開化という物質的な側面ばかりを強調する世間に対し、文明という言葉を用いることで、知識と道徳をともに向上させることの重要性を強調したかったのかもしれない。

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第115回日本医史学会学術大会(2014年5月31日–6月1日、於:九州国立博物館)

 第115回日本医史学会学術大会に参加して参りました。今回の大会は、先日九州大学を退官されたヴォルフガング・ミヒエル先生を会長に、多くの報告がなされました。以下に、いくつかの報告について簡単に紹介を。なお、以下の要約は、当日のTwitterでのまとめに少し手を加えたものです。

第115回日本医史学会学術大会、2014年5月31日–6月1日、於:九州国立博物館

・安西なつめ「ニコラウス・ステノによる脳の解剖学講義――17世紀の解剖学への批判と提言」

 しばしばデカルト批判の部分が注目されるステノの解剖学講義であるが、実際のところ、ステノはデカルト個人を攻撃したというより、当時の解剖学のあり方全体を批判し、解剖学という分野のあるべき姿を提示しようとしていた。ステノは先人が書物の知識の確認するだけで解剖学を研究していたことを批判した。代わりに採用すべき方法として、自身の解剖による詳細な観察・仮説と経験の区別・解剖方法の変更・他の動物での確認という4つの方法を提示したのであった。

・柳澤波香「エヴェリーナ・ロンドン小児病院の設立について」

 オーストリアのフェルディナンド・ロスチャイルドは、1866年に妻・エヴェリーナを鉄道事故で死亡したことを受け、妻の名を関した小児病院を設立した。ロンドンブリッジ近くの貧困地区に設置されたこのボランタリー・ホスピタルは、(1)複数の寄付者によるのではなく、ロスチャイルド一人によって設立されたこと、(2)既存の施設を病院にあてるのではなく新築でつくられたこと、という二つの点で他のボランタリー・ホスピタルとは異なっていた。この病院では、当時有名であった医師も多く診療にあたったという。その後、1948年のNHS施行にともない、近隣のガイ病院に統合され、エヴェリーナの名が病院からなくなった。しかし、2005年にエヴェリーナ・ロンドン小児病院が再設立され、慈善の精神を引き継いだ病院が今日復活したのであった。

・香戸美智子「英国の輸血機構と血液型群の研究について」

 1920年代イギリスにおいて輸血に関する組織が設立されはじめた。その先駆者Percy Lane Oliverは、1921年人道主義にもとづき輸血に関するボランティア組織を設立した(なお、1920年代のアメリカでは血液の売買も進んでいった。そして、1970年代のアメリカでは、売血から献血への組織づくりが進められた)。戦間期・1930年代に、J.B.S. Haldaneらによって血液型群の研究が進み始める。1930年代後半にはDame J.M. Vaughanが英国の輸血組織を発展させた。その発展の背景には、保存血の登場によって、一般市民への血液提供ができるようになったことも大きかった。その後、血液貯蔵施設がロンドンにもつくられ、ロンドン大空襲の際には多くの人命を救った。なお、血液型を民族と関連づけようとする研究もこの時期に進められた。

・町泉寿郎「海上随鴎(1758〜1811、稲村三伯)の医書について」

 『洋注傷寒論』(写本、カリフォルニア大学サンフランシスコ校蔵)をはじめとする海上随鴎の医書は、人体部位をあらわす特異な作字を多くおこなっていたという特徴を有している。随鴎は西洋医学を単に紹介するのではなく、それと漢方医学を折衷しようとこころみていた。このやり方は、同時代の杉田玄白らのやり方とはかなり異なるものであった。

・アンドリュウ・ゴーブル「桃山時代の家庭医学:本願寺西御方(1562–1616)を例にして」

 本願寺西御方を治療した医師の数は8人いた。専任医師は山科言経で、25年間にわたってほぼ毎日往診している。その他には曲直瀬玄朔・正琳の名もあったようである。その西御方にみられる、桃山時代の家庭医学の特徴はどのようなものであったのだろうか。著者が言うには、その最大の特徴は「自療」(自分で治療をおこなう)であり、自療には以下の3つの特徴があった。(1)患者は自分の病歴を記録し、医師に提供しており、その記録はメモ程度のものから詳しい目録まで様々であった。またその記録は、西御方自身に関する病歴録だけでなく、子ども・乳人・女中のものも含まれていた。(2)薬については、第一に処方名を知ることで、病名に応じて薬を服用していたこと、第二に自分の薬で自分で調合・製薬していたこと、第三に生薬を購入していたようである。(3)薬のなかでも「持薬」が家庭医学においてもっとも特徴的であった。「持薬」とは、専任医師が患者に、普段の体調や持病を管理するために常備した薬であった。

・大道寺恵子「中国医学「近代化」の試み「蘇州国医医院(1939–1941年)の事例を基に」

 1939年、中華民国維新政府下で陳則民が蘇州国医医院という病院を設立した。その病院には医師・看護師あわせて30人ほどが勤務しており、その入院患者の男女比は8.5:1.5であった。中華民国維新政府は、貧民に施療すること、および衛生防疫の補助としての機能すること、をその病院に期待していた。しかし、蘇州国医医院の史料をみると、その病院では必ずしもそういった機能が果たされていたわけではないことがわかる。第一に蘇州国医医院の入院患者は、そのほとんどが働き盛りの男性であったし、警察関係者・給与所得者が多かった。その背景には、薬価の負担が高かったことなどがあげられるだろう。第二に、記録からは衛生行政の補佐に関する記述はほとんどみられない。入院患者の記録から他にわかることは、二週間ほどの短期入院が多かったこと、傷寒論を重視しながらも西洋の診断名が比較的多かったことなどがあげられ、後者については医学史研究でしばしば議論されるMedical Pluralismという観点からも議論できるかもしれない。

・小田なら「ベトナム南北分断期(1954〜1975年)南北ベトナムにおける伝統医学の制度化」

 現代ベトナムは南北分断期における北ベトナムの流れをくむため、ベトナム医療史では南ベトナムの動向が軽視されがちであった。ベトナム医療史において伝統医学の位置付けが議論されるときも、南ベトナム医療史は偏った見方で論じられてきたのである。たとえば、ベトナム医療史ではしばしば、北ベトナムが伝統医学を公的医療制度に組み入れることに成功したのに対し、南ベトナムは西洋医学(とりわけアメリカによる西洋医学)になびき、伝統医学を排除しようとしたと言われる。実際、北ベトナムでは早くは1957年から伝統医学を国の医療制度のなかに取り入れており、伝統医学は医療の選択肢の一つとして認識されていた。しかし北ベトナムと同様に、南ベトナムもまた、ある時期は伝統医学をなんとか取り入れようと試みていたのである。たしかに分断期がはじまった頃は、南ベトナムは伝統医学を限定的にとらえていた。つまり、1943年にフランス植民地政府が出した布令を継承したのである。しかし1960年代に入ると、南ベトナムでも伝統医学の是非の議論が進み、1970年代には伝統医学の「科学化」が叫ばれるようになったり、ベトナム伝統医学の祖を顕彰したりするようになっている。つまり、南ベトナムでも伝統医学との共存ははかられていたのであって、この側面はベトナム医療史ではほとんど注目されてこなかったのであ
る。

南北戦争による奴隷解放と世界的な綿花産業の成立:Beckert "Emancipation and Empire"(2004)

 とあるアメリカ史の授業のアサインメントとして読みました。なお、以下の要約は授業での議論やレジュメ担当者のまとめなども参考にしています。

Sven Beckert, "Emancipation and Empire: Reconstructing the Worldwide Web of Cotton Production in the Age of the American Civil War", The American Historical Review, 109(5), 2004, pp. 1405–1438.

 アメリカ史研究では、南北戦争が国内に与えたインパクトの大きさは自明視されているにもかかわらず、国外にどういった影響を与えたかについては比較的検討されることが少なかった。そこで著者は国内外における綿花生産を事例として、この戦争の前後でその活動がアメリカ一国内の事象から、世界規模なものへと変容していくことを描き出している。
 ヨーロッパでは、奴隷制下で生産されていたアメリカ南部の綿花に大きく依存していたが、南北戦争を機にその調達が困難になった。著者はこれを「綿花飢饉 cotton famine」と呼ぶ。そのため、各国の綿花商人・製造業者は、当初南部連合国軍への支持を表明した。しかしながら、綿花生産が必ずしも奴隷の労働力を必要とせず、アメリカ国外でも安価な綿花が生産できることがわかると、彼ら商人たちは南部の独立は世界経済に打撃であるとして懸念を示すようになり、北部連邦軍を次第に支持するようになった。実際、北部連邦軍も海外での綿花栽培奨励を表明するなどして、南部連合国軍を支持していた綿花関係者たちを取り入れようとしたのである。こうして、世界では新たに、インド、西アフリカ、トルクメニスタン、ブラジルといった国々が綿花を栽培するようになった。南北戦争後の綿花市場は、奴隷制によらない労働形態や国家による介入などの新たな特徴をもつようになっていった。そしてかつての綿花生産国アメリカは、イギリスにつぐ世界第二位の綿花工業国へと変貌を遂げたのであった。