日本語版New Books Networkのはじまり?

ブック・ラウンジ・アカデミア(Book Lounge Academia, BLA)という、学術専門書の著者インタビューサイト(日本語)が始まったようです。

 

www.bookloungeacademia.com

 

アメリカには、New Books Network(NBH)という学術専門書の著者インタビューサイトがありますので、BLAのコンセプトはかなりNBHと近いですね。日本にもNBHのようなサイトがあればいいなぁと思っていたところでしたので、BLAの創設はとても素晴らしいと思いました。

 

現在の運営メンバーは、石塚輝紀氏、松田ヒロ子氏(神戸学院大学・専任教員)、山本和行氏(天理大学・専任教員)とのこと。最初のインタビューは先月下旬にアップされており、現在まで以下の2本がアップされております。

 

山本和行『自由・平等・植民地性——台湾における植民地教育制度の形成』(国立台湾大学出版中心、2015年)
インタビュアー:冨田哲氏

 

youtu.be

 

 

・Motoe Sasaki (佐々木一惠), Redemption and Revolution: American and Chinese New Women in the Early Twentieth Century (Ithaca: Cornell University Press, 2016).
インタビュアー:松田ヒロ子氏

 

youtu.be

 

早速、両方聞いてみましたが、著作のねらいや、もとになった博士論文の執筆背景、出版に至るまでの経緯や悩みなどについても言及されており、とても面白かったです。また、両著作とも日本国外の出版社で出版されたものであるという点も興味深いですね。今後も、様々な学術書が紹介されていくのだと思います。楽しみです。

アーカイブズ・カレッジのクラウドファンディングがおこなわれています

 現在、国文学研究資料館国文研)がアーカイブズ・カレッジのためのクラウドファンディングをおこなっております。
 
 
 アーカイブズ・カレッジとは、アーカイブズ学の基礎・応用を多彩な講師陣から誰でも学ぶことができる研修会です。
 
 アーカイブズ・カレッジには長期コース(約1ヶ月)と短期コース(約1週間)の2つがあり、私は長期コースを2013〜2014年度に分割で履修しました。そこでアーカイブズ学に関する基礎知識を得ることが出来ただけでなく、関心が近い方と多く知り合うことが出来、非常に貴重な経験となりました。このときの参加記録は自身のホームページ(https://hirofujimoto.weebly.com/archivescollege.html)でもまとめています。また、アーカイブズ・カレッジでの修了論文として医療アーカイブズに関する論文を執筆し、『国文学研究資料館紀要 アーカイブズ研究篇』に掲載していただき、その寄稿を通じてさらに新たな方とも知り合うことができました。
 
 そんなアーカイブズ・カレッジですが、長期コースが国文研(東京)で開催されるのに対し、短期コースは毎年全国をまわる形式で実施されていました。私自身は短期コースに参加したことはないですが、実際にアーカイブズ活動に従事される方の中で、仕事の関係で長く休めない、長期コースは遠方であるのでしづらいといった方にとっては、短期コースが地方開催されてきたことはとても意義のあるものであったと思います。
 
 しかしながら、短期コースの開催の予算が突如削減されてしまったため、今後、その開催が難しくなっているというニュースが6月頭に入ってきました。そのため、国文研は300万円を目標に設定し、クラウドファンディングを開始しました。昨今、公文書の不在の問題、あるいは、自然災害による被災資料のレスキューの必要性などもあり、アーカイブズの重要性がとくに高まっています。そのため、このクラウドファンディングに対する世間からの関心も非常に高く、開始からわずか3週間ほどで目標額に達し、短期コース2回分の予算をなんとか確保することが出来たようです。
 
 私がアーカイブズ・カレッジを受講した際にお世話になった先生によれば、現在は、第二の目標金額を設定し、さらにクラウドファンディングを続け、それを通じて多くの人にアーカイブズの意義について知ってもらおうと考えているようです。クラウドファンディングのホームページには、アーカイブズの活動内容に関する読みやすいブログ記事なども多く掲載されていますので、是非チェックしてみてください。締め切りは8月7日(金)午後11時とのことです。

論文:藤本大士「近代日本におけるアメリカ人医療宣教師の活動——ミッション病院の事業とその協力者たち」(東京大学大学院総合文化研究科、2019年3月)

 昨年度、博士論文「近代日本におけるアメリカ人医療宣教師の活動——ミッション病院の事業とその協力者たち」を提出しました。もし、論文に関心のある方はお気軽に<fujimoto.daishi[at]gmail.com>にまでご連絡ください。目次は以下の通りです。 

藤本大士「近代日本におけるアメリカ人医療宣教師の活動——ミッション病院の事業とその協力者たち」(東京大学大学院総合文化研究科、2019年3月) 

目次

凡例

序論 アメリカ人医療宣教師と近代日本

第1節 問題の所在
第2節 先行研究の検討
第3節 方法と対象
第4節 分析視角
第5節 本論文の課題
第6節 資料と用語
第7節 構成

第1章 医療宣教のはじまり

はじめに
第1節 医療宣教開始の背景
第2節 最初期の来日医療宣教師
第3節 ヘボンによる医学教育
小括

第2章 医療宣教の広がり

はじめに
第1節 医療宣教拡大の背景
第2節 1870年代の来日医療宣教師
第3節 医学教育者および宣教師としての活動
小括

第3章 医療宣教の変化

はじめに
第1節 医療宣教低迷の背景
第2節 教員および聖職者としての活動
第3節 ドア・オープナーからキリスト教人道主義の実践者へ
小括

第4章 女性医療宣教師

はじめに
第1節 女性医療宣教師来日の背景
第2節 1880–1890年代の来日女性医療宣教師
第3節 医療宣教中止の理由
第4節 医療宣教継続のために
小括

第5章 宣教看護婦

はじめに
第1節 宣教看護婦来日の背景
第2節 1880–1890年代における看護婦養成と宣教師
第3節 1920–1930年代におけるミッション看護学校
第4節 ミッション看護学校の意義
小括

第6章 セブンスデー・アドベンチスト教会と水治療法

はじめに
第1節 セブンスデー・アドベンチスト教会における医療の位置づけ
第2節 日本における医療宣教の展開
第3節 医療宣教成功の要因
小括

第7章 アメリカ聖公会と国際病院・公衆衛生事業

はじめに
第1節 初期事業
第2節 外国人への医療提供
第3節 予防医学・公衆衛生
第4節 国家総動員体制下
第5節 宗教活動
小括

第8章 民間からの戦後医療改革

はじめに
第1節 ドイツ医学からアメリカ医学への転換
第2節 病院制度
第3節 インターン制度
第4節 看護制度
小括

第9章 発展する医療宣教

はじめに
第1節 戦後のミッション病院
第2節 ミッション病院の特教
第3節 チームとしての医療と宣教
小括

結論 アメリカ人医療宣教師と医学史・ミッション史

第1節 ミッションにおける医療宣教師の役割の変化
第2節 ドイツ医学の時代における医学教育
第3節 日本人による医療との差別化
第4節 日本における医療とキリスト教の総合史にむけて

文献リスト

新聞・定期刊行物・書籍等
研究論文・研究書・年史等

 

小高健(編)『長與又郎日記』上・下巻(2001–2002)

小高健(編)『長與又郎日記——近代化を推進した医学者の記録』上・下巻、学会出版センター、2001–2002年。

 

長与又郎日記―近代化を推進した医学者の記録〈上〉

長与又郎日記―近代化を推進した医学者の記録〈上〉

 
長与又郎日記〈下〉近代化を推進した医学者の記録

長与又郎日記〈下〉近代化を推進した医学者の記録

 

 

Nagayo Matao Nikki (2001–2002)

Author: 長與又郎 Nagayo Matao (1878–1941)
Period: 1931–1941


Description: The director of Densenbyō Kenkyūjo (伝染病研究所), the dean of the medical school of the Tokyo Imperial University, and the president of the Tokyo Imperial University.

Further Reading:
- 岡本拓司『科学と社会——戦前期日本における国家・学問・戦争の諸相』サイエンス社、2014年。(Esp. pp. 126–135)

 

科学と社会―戦前期日本における国家・学問・戦争の諸相

科学と社会―戦前期日本における国家・学問・戦争の諸相

 

 

茶谷十六・松岡精(編)『門屋養安日記』上・下巻(1996–1997)

茶谷十六・松岡精(編)『門屋養安日記』上・下巻(『近世庶民生活史料未刊日記集成』1・2巻)、東京 : 三一書房、1996–1997年。

 

近世庶民生活史料 未刊日記集成1

近世庶民生活史料 未刊日記集成1

 
近世庶民生活史料 未刊日記集成2

近世庶民生活史料 未刊日記集成2

 

Author: 門屋養安 Kadoya Yōan
Date: 1835–1869 (Volume 1 = 1835–1851; Volume 2 = 1852–1869)

 

Further Readings:
- 茶谷十六『院内銀山の日々――「門屋養安日記」の世界』秋田魁新報社、2001年。

院内銀山の日々 「門屋養安日記」の世界

院内銀山の日々 「門屋養安日記」の世界

 

 - 秋元順子「近世文化の地方波及についての一考察――『門屋養安日記』を素材にして」『橘史学』 16号、2001年、66–86頁。
- 高木俊輔「幕末維新期の日記史料――出羽国秋田院内銀山町「門屋養安日記」の場合」『立正史学』100号、2006年、43–65頁。
- 三好貴子「地方への牛痘法伝播の一事例――秋田藩院内銀山における医師門屋養安の場合」『橘史学』23号、2008年、41–60頁。

- Susan Burns, "Nanayama Jundō at Work: A Village Doctor and Medical Knowledge in Nineteenth Century Japan," East Asian Science, Medicine, and Technology, 29, 2008, pp. 62–83.

20世紀初頭における人種の純粋性・階層性への批判:Tilley “Racial Science, Geopolitics, and Empires"(2014)

 Isis, Focus読書会 #15 "Relocating Race"での担当箇所のレジュメをアップします。

Helen Tilley,“Racial Science, Geopolitics, and Empires: Paradoxes of Power," Isis, 105(4), 2014, pp. 773–781.
http://www.jstor.org/stable/full/10.1086/679424
※上記リンクから無料DL・閲覧可能

 1911年にロンドンでおこなわれた世界人種会議(the Universal Races Congress, URC)には、50カ国を超える国から2100もの参加者が集まった。著者はこの会議を手がかりにして、20世紀前半に起こった人種をめぐる議論を描き出そうとする。つまり、ある者は人種の純粋性や階層性を想定する考えに対し批判の声をあげ、またある者は人種という言葉を使ってアイデンティティを強化しようとしていた現象である。著者はこのような逆説的な事態が起きた背景を検討するにあたって、人種科学、地政学、帝国という三つの側面に注目する。
 まず著者は人類学者たちの人種科学に対するアンビバレントな姿勢を指摘している。1911年のURCでは、純粋な人種という概念が時代遅れの議論であると確認することや、人種によって能力に優劣があるとする議論へ問題提起することが会議の目的として参加者に共有されていた。しかしながら、人類学者Felix von Luschanなどの人種科学の専門家は、人種の純粋性や階層性は否定されるべきものであると同意しつつも、だからといって人種に関する研究は意味がないものと結論づけるべきではないと論じた。このときに人類に関する研究のまた別の可能性として提示されたのが、生物学的差異や歴史的進化というトピックであった。人類学者たちのこのような態度は、20世紀初頭に既に人種という概念に対する疑念がさしむけられながら、その後も人種理論が残り続けたことの一つの理由であったと著者は指摘する。
 次に著者は、植民地支配が広がっていく時期における人種に関する考えの地政学を示している。人類学者の提案は、URCに参加していた各国政府代表や国際弁護士たちに、政治や政策立案の重要さを認識させることになった。すなわち、人種間の階層性が否定されるのであれば、ヨーロッパとアフリカの間にあるような経済的・社会的な不平等も解消されるべきという合意が形成されたのである。
 最後に、著者はしばしば指摘される帝国と人種言説の相補的な関係ではなく、これまで研究史上で見落とされてきた両者の対立関係を描き出そうとする。人種言説の不安定さは、皮肉にも人種国家建設の過程において進展していった。1950年までにはもはや人種言説にもとづいて植民地支配を正当化するのは難しくなっており、その変化は第二次大戦によって生まれたと捉える見方がある。しかし、著者はAfrica as a Living Laboratory (Chicago: University of Chicago Press, 2011)という著作で指摘していたように、戦間期には既にそういった変化が起きていた。実際、既存の人種言説に対する批判的な姿勢はURC参加者だけに共有されていたのではなかった。各国の行政官や役人もまた一定程度人種概念に訴えた植民地経営の正当化に疑念をもちはじめていたのである。たとえば、1937年には東アフリカ国務次官補 (Assistant Secretary of State for East Africa)が英国領のアフリカにおける優生学と知能テストの意義を疑問視している。もちろん、帝国と人種理論の結びつきを検討するのは重要であり、実際にある種の人種言説が帝国へと広がっていた。しかし、URCでみられたような人種理論に対する批判がまた、人種理論に基づいた植民地支配の進展を難しくした。

大陸をつなぐルートから研究対象へと変わる海洋:Reidy & Rozwadowski "The Spaces In Between"(2014)

 Isis, Focus読書会 #14 "Knowing the Ocean: A Role for the History of Science"での担当箇所のレジュメをアップします。

Michael S. Reidy and Helen M. Rozwadowski, "The Spaces In Between: Science, Ocean, Empire," Isis, 105(2), 2014, pp. 338–351.
http://www.jstor.org/stable/10.1086/676571
※上記リンクから無料DL・閲覧可能

 帝国科学の歴史は、帝国とその植民地における科学的営みについては多く記述してきたが、その間にある「海洋」に対しては全くと言ってよいほど関心を払ってこなかった。確かにある時期までは、海は新たな植民地までの単なるルートに過ぎず、それ自体が人々の関心を集めることはなかった、そもそも海は占有の対象であるとも考えられていなかった。しかし、19世紀中頃より科学者の間で、海洋それ自体が研究の対象になり、科学者たちは海に関する科学知識を積み上げていくことになる。このときに専門化していった海洋学の知識は、帝国を押し広げようと大海に乗り出した船乗りたちの大きな助けとなったし、そのような事実が科学知識に対する国家的な支援を引き出すことになった。つまり、これまで科学史においてほとんど注目を浴びることがなかった海洋学の歴史においてもまた、19世紀の他の科学分野と同じように、専門化・国家による援助・科学者の新たな自己認識などの現象が確認できるのである。
 もともとの海に対する関心は帝国主義に基づく商業的・政治的なアジェンダとともにはじまったが、そういった関心はすぐに科学や文化を取り入れることになる。19世紀において、海洋に関する知識増大に拍車をかけたのはイギリスとアメリカである。両国では産業化に伴って、遠方の海に行くことが可能になっており、海底電信ケーブルの敷設も進められていた。この時期に、海が単なるルートから研究対象として徐々に認識されはじめたのである。そして、海に対する関心が、空間的なアプローチと詳細な測定法が結びついたとき、海洋学は他の科学との関連性を高めていく。
 海洋の科学知識に関心をもった人々は、世界は海によってつながれているとするフンボルトの考えに共感していた。イギリスではヒューウェル(William Whewell)が空間的なアプローチという新たな方法論に基づいて潮汐研究をおこなった。それまではある地域の潮汐表を通時的にみることで潮の満ち引きを導いていたため、その計算が複雑になることがしばしばであった。しかしヒューウェルは異なる場所の比較という視点を導入したことで、一つの地域の潮汐表から他の地域の潮汐表を簡単に推論することを可能にした。なお、ヒューウェルは「科学者」という言葉を造語したことで知られるが、彼は科学者をこのようなプログラムを実践する者として捉えていた。
 19世紀中頃のアメリカでは、モーリー(Matthew Fontaine Maury)が国家による援助を受けて、海底の深浅測量を進めていった。このような測量は同時に深海生物に対する関心を高め、1858年にはイギリスの海洋調査船チャレンジャー号が海洋の生物調査をおこなった。海洋生物学に対してとくに大きな貢献を果たしたのはウォレス(Alfred Russel Wallace)であろう。彼は『動物の地理的分布』(1876年)において、地域ごとに番号を付して、その地域を色分けし、世界中の動物の分布を示した。彼の発想の独創的な点は、これまでにおこなわれてきた陸上の動物に対する関心を、海の視点から捉え返すことを提案した点である。すなわち、動物の分布は浅い海底でつながっていれば異なる大陸でも似た分布となり、深い海底であれば異なる分布となることを示したのであった。