医療機器が呼び起こす身体感覚:Arnold & Söderqvist "Medical Instruments in Museums" (2011)

 研究室の学生を中心として行っているIsis Focus読書会ですが、研究会用に医療機器に関する論文のサマリーをつくりました。なお、研究会の詳細については、下記リンクをご覧下さい。どなたでも参加を歓迎しますので、興味がある方はお気軽にご連絡ください。

4/6(金) Isis, Focus #3 科学的機器の歴史 - 駒場科学史研究会

Ken Arnold and Thomas Söderqvist, "Medical Instruments in Museums: Immediate Impressions and Historical Meanings," Isis, 102(4), 2011: 718-729.
Isis > Vol. 102, No. 4, December 2011 > Medical Instruments
※ 上記リンクより無料閲覧・DL可能

 本論文では、英国のウェルカム・コレクションとコペンハーゲンにある医学博物館の館員という博物館に携わる者の視点から、医療機器の歴史研究に対する最近の動向が議論されている。著者は、医療機器の歴史的な文脈や意義について注目するだけでなく、機器の「直接的な現前性」への関心を本論で喚起している。
 医療機器をいかに捉えるかについては、副題にもあるように「歴史的意味」と「直接的な感情」とに二分される。これら2つの視点は、ロンドン科学博物館のオンライン展示「生命が宿る」(2009年)に対する、デイリー・メール誌とインデペンデント誌における反応に象徴的である。前者では、「病気も十分ひどかったが、その治療はもっとひどかった」というコピーにあるように、過去の医療のおぞましさが強調されており、後者では「人間の文明の発展は医療の発展にある」という言葉にあるように、医療が文化の支柱として捉えられている。歴史家としては、後者の慎ましい態度を支持するだろう。しかしながら、著者は医療機器に対するより良い理解には、それら両方の見方が重要であると主張する。というのも、「もの」に関する文化的・社会的・歴史的「意味」については、すでに歴史家たちによって過度なまでに論じられている一方で、その「現前性」についてはほとんど論じられていないからである。そのため著者はこの「現前性」への着目を促すのであった。
 このような「現前性」への注目は、他の研究者の議論の中にもみることができる。例えば、博物館学研究者であるサム・アルベルティは、19世紀の人々が同じ機器に対して驚嘆や喜びを示すこともあれば、困惑を示していたこともあったと指摘した。そのことによって彼は「感覚」への関心を喚起したのである。また別の例として、文学理論学者のハンス・ウルリッヒ・グンブレヒトは、「現前性の文化」と「意味の文化」として定式化を行い、「現前性」を世界と身体や感覚との直接的・空間的な関係であると規定した。以上のような議論を踏まえつつ、著者は鑑賞者の身体に直接訴える感覚への着目を促すのであった。

 以上のような問題意識のもと、「もの」のもつ感覚的・触覚的なインパクトについて探求される。ここで著者が注目するのは外科学機器である。まず、外科学機器の歴史叙述について検討が行われる。外科学の歴史を顧みるにあたって、物質的な機器への着目は非常に重要であり、外科学の社会史は常に物質の歴史に二次的であるといえる。そして、医療機器の歴史についてみれば、多くの場合において、はさみやナイフといった日常的な家庭用品が、医療機器の代替物として利用されてきたことがわかる。
 次に著者は、機器をいかに定義しうるかを哲学的に探求する。例えば、手工品(tool)と機器(instrument)を比べるとき、それらの違いは、それらが使われた場所というよりも、それらを使っていた人々の地位やアイデンティティによって規定されることが多い。医療の場面においては、手工品は治療や診断の場面において使われ、機器はより広い研究を目的とした場面で使われる。しかしながら、それらの間にはそれほど明確な差異はない。実際、実験室や病院という臨床空間の誕生は、機器の性格を一変させたと言える。というのも、患者の徴候的な診断への関心が高まることによって、聴診器や体温計などの機器が生み出され、さらには、麻酔や細菌学、放射線医学の発展によって、機器の実践においては機器の技術的な実践と専門的な理論が必要となったのである。
 言い換えると、機器が何を行うかについてだけでなく、まず第一に機器が何であるかを理解するためには、視覚的・概念的リテラシーアプリオリな形式が必要条件なのである。実際、最近の人類学の研究では、この概念の確からしさを支持しているように思える。その事例として、セネガルX線技術がもたらされたとき、X線透視法の効能をセネガル人が理解するためには、その文脈を彼らに教えることが非常に重要であった。

 ここまでは主として機器に対する哲学的な考察が行われたが、次にその歴史的な考察が行われる。外科学器具の歴史では、主として意味的・文化的コンテクストばかりに注目されてきた。しかし、著者が強調するのは、握ったり、においをかいだり、味わったりするという感覚を通じて得られる「直接的な現前性」である。つまり、プラグマティックで文字通り経験的なアプローチが重要なのである。だが、残念なことに、過去の温度計を温めたり、冷やしたりすることや、医療用ノコギリに血がつくことはのぞましくない。そのため、我々は過去の人々がそれらの医療機器から影響を受けたのとは違う方法で我々に影響を与える方法を認識し、それら機器の「直接的な現前性」によって過去の重要性の一部でも蘇らせるようにすべきであろう。
 次に、具体的な医療機器のコレクションについて紹介が行われる。英国国内だけでも、300万を超える医療機器の品目が所蔵されているが、中でもヘンリー・ウェルカムのコレクションは有名で、数多くのメスや鉗子を陳列した展示会などが開かれてきた。しかし、著者が繰り返し言うように、「もの」について言葉で説明したりするだけでは、その機器のもつ潜在性を完全に理解することができない。その医療機器の別の過去を浮かび上がらせるためには、それらがじっくりと見られたり、持たれたり、においをかがれたりするのを静観しなくてはいけないのである。
 医療機器、特に外科学機器は「感情的な」現前性を備えている。それは、医療機器によって傷つける実践者と傷つけられる患者という構図において明かであろう。また、医療機器における知識と感情の混合を示す展示として、ウェルカム・コレクションでおこなわれた「外科学ライブ」が挙げられる。そこでは、医療機器がまさに利用されている手術のライブ映像を映しながら、医療実践者と観衆の間で対話が行われたのであった。
 さらに、19世紀中頃に使用された胎児を取り出す産科用鉗子の展示は、知識と感情の混合を示すまた別の例となるだろう。鉗子につけられた革は、胎児や母体を傷つけないための配慮のためにつけられていたが、それが皮肉にも細菌の感染源となっていた。このことは、今日大いに発展した細菌学のおかげで導かれる視点だが、その他の視点ももちろん考えられる。例えば、ある者はその医療機器から苦痛を感じとり、またある者は今日における機器の進歩に感謝する。そして、権力関係に関心のある者は、医師と患者の間の権力関係の非対称性をそれに読み取るのであった(ここでの権力関係は、男性・女性の非対称性とも重なる)。
 また別の例として、19世紀初めに作られた「リソクラスト」は、博物館への来訪者にとっては最も理想的な手工品である。それは、結石を砕くためにつくられたのであるが、「鉄」という身近な物質で出来ており、「トング」のような日常的な道具とも似ており、それがもつ「砕く」という機能は来訪者にとってもすぐに理解できるため、その医療機器が引き起こした感情をについての想像力をかきたてやすいのであった。
 以上みてきたように、具体的かつ個人的に詳説された医療機器は、一つの重要な歴史叙述となりうる。そして、こういった見方は、医療実践や「医学が作られる」過程における「感じられた」歴史において本質的なのである。