植民地科学における非公式ネットワーク: Harrison "Science and the British Empire" (2005)

Mark Harrison, "Science and the British Empire," Isis, 96(1), 2005: 56-63.
※無料閲覧可:Isis, Vol. 96, No. 1, March 2005

 本論考は、ここ数十年多くの注目を浴びている「植民地科学」研究について、大英帝国における科学活動の事例を中心に、これまでの研究成果をサーヴェイしたものとなっている。著者は、フランスでは国家が植民活動を先導していたのとは異なり、18世紀イギリスの植民活動では非公式的な活動が中心であったことに注目する。そうすることで、これまで支配的であった植民地支配の道具としての「植民地科学」を捉える視点から距離をとり、より広い文脈に当時の科学を位置づけようと試みている。

 これまでの植民地科学研究では、国家によって進められていない科学には注意が払われず、植民地における科学を本国における科学とは別のものであるとみなしていた。しかし、最近の研究では、「植民地科学」という概念そのものを問い直すことによって、新たな知見を獲得しはじめている。
 そもそも、「植民地科学」という概念装置は、ジョージ・バサラの『西洋科学の広がり』(1967)にその始原をとることができる。バサラは、西洋科学が普遍的に「拡散」していく過程に注目し、植民地における西洋科学への依存から最終的には自立するものであるとして描いた。しかし、その後、バサラのように科学の発展に重きを置く議論から、植民地支配の道具として科学を捉える視点が生まれてくる。例えば、ドナルド・フレミングの議論を引き継ぎつつ、ミシェル・ウォーボイズは科学が本国の植民地政策を進めるために、周辺地域で新資源獲得を目指していたことを指摘した。その後の研究では、植民地内部の差異が注目され、オーストラリアなどでは西洋科学の導入が比較的容易に行われ、ダニエル・ヘドリックのいう技術の「再転移」の恩恵を受け、国際的な科学活動に参加するほど自立していったことなどが指摘された。このように、本国への依存として植民地科学を捉える視点は限界を呈しはじめていったのである。

 その後の研究では、周縁地域における多様性やダイナミクスへ注目が集まっている。ロイ・マクレオドは「移動する本国」という概念装置を考案し、シドニーコルカタのように本国の支配を受けつつも、科学の自律性を築き上げていった様子を描いた。さらに、フーコーやサイードに影響を受け、1980年代からは「文化帝国主義」の担い手として科学を捉える見方があらわれてくる。また、当時の科学者たちが帝国による支配を正当化するために、植民地で得られた地理学などの新知見と人種概念を結びつけることで、人種を自然条件との関係で捉えようとしたことも指摘された。
 フーコーが提起した「生権力」という概念もまた、植民地科学研究で注目されている。そこでは、植民地の人々の身体を管理するために重要な公衆衛生の導入などが検討された。しかし、実際、それら身体を把握するのに必要なインフラは整備されておらず、「生権力」は機能していなかったことも明らかになっている。そこで、最近では、国家の人口管理の機構に注目するのではなく、植民地における西洋文化の広告を検討することで、現地の人々をいかに同化しようとしていったかが検討されてきている。
 植民地におけるモダニティがどのような性質のものであったかについては、既に多くの研究が集まっている。例えば、インドでは西洋科学をプラグマティックにかつ選択的に受容していった。ギアン・プラカシュによれば、ある化学者は西洋の支配を転覆させるには知識のハイブリッドが必要であると主張していた。このような新たな研究は、「科学の拡散」というかつての見方の限界を指摘することになる。というのも、科学の「移植」の形態は一様ではなかったし、西洋近代科学の知見は植民地において生まれてもいたからである。
 このように、最近の研究では植民地における科学活動へ注目が集まってきているが、いぜんとして、それらは植民地国家の施設や本国のパトロンに関心が集中してしまっている。それに対し、スティーブ・ハリスは大規模な科学活動を維持するにあたって近世における東インド会社の重要性に着目し、その他の歴史家も東インド会社の庇護を受けた科学活動について研究を進めている。しかし、それらの全体性についてはまだ十分に議論されていない状況である。また、レヴァント社のように長きにわたって活動していた会社についても、当時の医学活動において重要であったにもかかわらず、ほとんど研究されていない。
 ただし、1860年代までの英国における科学活動を可能にしたのは、このような会社だけでなく、英国におけるジェントルマン精神があったこともまた重要である。多くの科学あるいは医学の実践者たちは、東インドなどで知り得た知見を欧米の科学雑誌に寄稿していた。また、このような大衆文化だけでなく、宗教もプロテスタント国家出身の科学者を一致団結させ、植民地の「改良」という信念を科学者に共有させることになった。
 以上のように、植民地科学は支配国やそのパトロンがハブとなり広がっていったようなものではなく、チャルマーズやギリスピーがいうように、複数の中心をもったネットワークが形成されていたのであった。このことは今日における「植民地科学」というタームが人口に膾炙してしまっている現状を考えると重要である。もちろん、これまで多くの植民地科学研究者が指摘したような事実、すなわち、科学が植民地主義に取り込まれていったという事実を無視しろというわけではなく、あくまで著者はあまりに見過ごされてきた他の要素への着目を喚起しているのである。つまり、科学の特徴は植民地主義だけによって形成されたわけではないのである。

関連リンク

Mark Harrison(University of Oxford) http://www.history.ox.ac.uk/staff/postholder/harrison_m.htm