科学思想とイデオロギーの関係:坂野徹「日本人起源論と皇国史観」(2011)

坂野徹「第三章 日本人起源論と皇国史観──科学と神話のあいだ」金森修(編著)『昭和前期の科学思想史』勁草書房、2011年、243-310頁。

昭和前期の科学思想史

昭和前期の科学思想史

 本章では、人類学者にとって重要な課題であった「日本人種論」という科学思想が、戦中、皇国史観と次第に重なっていく様子が描かれている。そして、この科学思想と皇国史観との関係を、科学がイデオロギーによって歪曲されたという単純な見方をするのではなく、科学思想の内容それ自体に皇国史観とつながる議論が存在していたことを指摘するのであった。

 そもそも日本人種論という研究課題は、古くは幕末のシーボルトに、その後は明治初期のお雇い外国人によって注目されたものである。当初の議論では、主として考古学的な史料を参照しつつ、日本列島の先住民を確定しようということが試みられていた。一方、同時期には医学者ベルツによって生理学的なデータを用いた議論も生まれ、人類学会も創設され、日本人人類学者も登場した。つまり、明治期の外国人・日本人研究者の特徴は、記紀神話の記述を援用し、日本列島の先住民族が日本人の祖先によって征服されたという「人種交替パラダイム」が日本人種論の共通見解としている点であった。
 しかし、大正期になると、海外からの人類学的知見の紹介と相まって、「人種交替パラダイム」を主軸とする日本人起源論は危機の時代を迎えることになる。そのパラダイムに対する批判者は、濱田耕作・松本彦七郎・長谷部言人・清野謙次といった1880年代に生まれた「第三世代」の人類学者たちであった。大正デモクラシーとも呼ばれる当時の時代状況は、記紀を神話とみなす見方を津田左右吉といった歴史家にもつことを可能にしたが、このことは第三世代の人類学者を生み出し、それまでの人類学者のように記紀にある記述にとらわれ過ぎることを、新世代の研究者らは批判したのであった。

 ここで著者が注目するのは、彼ら第三世代の人類学者の議論の中には、のちに皇国史観と結びつくことになる議論が含まれていたという点である。すなわち、人種交替パラダイムにおける先住民族アイヌ民族と捉えることを批判した第三世代の人類学者たちであったが、このことは結果的に記紀の物語を、日本が他者と対峙した物語とみなすのではなく、日本人内部での闘争の歴史とみなすようになったのであった。
 このような流れの中で、大正期にアイヌ先住民族説を批判していた長谷部も、1930年代後半に新たな日本人種論を提起した。その説は記紀の記述に多く頼り、先住民族が日本列島にいたことを否定するものとなっている。そして、そこに当時の皇国史観の広がりを感じることができるかもしれない。一方、長谷部は古代から現代に至るまで日本人の間に大規模な「混血」はいかなったということも主張していた。しかし、これは大東亜共栄圏経営という考えに反し、日鮮同祖論と対立するものとも映ったため、結局、長谷部の主張が人々に支持されることはなかった。
 長谷部説で否定された「混血」であったが、清野はこの点をうまく自説に取り込んだ。すなわち、日本の歴史をいくつかの段階に分け、明治期からの時期を「民族解放期」とよび、異人種との混血・同化が行われたとするのである。そして、このような清野のアイディアは、大東亜共栄圏各地に日本人が進出することを正当化するものであり、日本人種論として戦前最大の成功をおさめたのであった。

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