宗教改革と医学というメタファー:那須敬「病としての異端」(2002)

那須敬「病としての異端――17世紀内戦期イングランドにおける神学と医学」石塚久郎、 鈴木晃仁編『身体医文化論:感覚と欲望』慶應義塾大学出版会 、2002年、67–90頁。

身体医文化論―感覚と欲望

身体医文化論―感覚と欲望

 近代医学が誕生する前の世界の医学思想は、「病気の霊的解釈」といった言葉にみられるように、医学は宗教的に下支えされたものだと考えられることが多い。しかし、実のところ、近世ヨーロッパにおいては、医学が宗教に従属的な位置づけであったわけではなく、それらは相互に影響し合う関係であったのである。医学はキリスト教神学に規定されていたのと同時に、神学的な概念もまた身体的・生理的な概念によっても説明されていたのである。
 本論は、ピューリタン神学者の「異端」に関する言説が、医学的なメタファーのもとに語られていたことに着目する。そうすることで、これまであまり語られることのなかった、医学的・病理学的な知が宗教の問題にも利用されていたことを明らかにするのであった。

 1646年、ピューリタン神学者のトマス・エドワーズはその著『ガングリーナ』において、セクト主義者の両親に産まれた奇形児について記している。当時のピューリタン内部では、統一した国教会改革の続行を求める長老派と、諸セクトの分立を認める独立派が対立していたが、長老派にとっては、独立派あるいはセクト主義者は「異端」であるとされていた。つまり、長老派のエドワーズは、異端の両親に産まれた奇形児を示すことで、異端に対する嫌悪的なイメージを構築しようとしたのであった。彼はさらに、身体の「汚染」、異端の「蔓延」や「感染」といった医学的なメタファーを用いながら、異端という宗教的な問題を語るのであった。
 それでは、なぜエドワーズは異端を攻撃するために、「病の言語」を利用したのだろうか。第一に、異端の一般的な性質について、医学のメタファーを用いることで、一般の人々にもわかりやすくするためであった。人々を破滅へと導く性質、また、すぐさま広がっていくという性質は、皮膚病、感染症としての癌やペストなどに例えられたのである。第二に、異端に対する人々のとるべき態度を説明するためであった。異端者を憎むべきものとするのか、哀れむべきものとするかは難しい問題である。そこで、普通の異端者は無知で不完全であるが、エドワーズの攻撃する異端者は、自分が異端であることを「強情に」認めない者のことであると特徴付け、彼らの「治療」を訴えたのである。
 このとき、「魂の医者」であるピューリタンの聖職者たちは、「宗教身体」の健康を守るべく、自らの社会的重要性を主張した。しかしながら、1647年までの議会軍の勝利と内戦の終結によって、独立派のクロムウェルに政治の実権が移ったため、長老派の聖職者たちは、結局、瀕死の教会を異端という病から救うことが出来なかった。
 以上みてきたような宗教と医学の関係からわかるように、「多くのピューリタンたちにとって、宗教改革とは、文字通り身体(からだ)としての教会をリ・フォームすること、つまり宗教身体の再生(リフォメーション)に他ならなかったのである。」(81頁)

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