言説分析について(2):橋爪大三郎「知識社会学と言説分析」(2006)

 とある授業のアサインメントの続きです。本章は、前回読んだ友枝論文と比較して、似ているとされる知識社会学と言説分析の方法論の相違点を強調していたので、わかりやすかったように思えます。しかし、実際に言説分析を使った論文を読まなくては、やっぱりイメージがつきづらいですね(^^;)

橋爪大三郎「第6章 知識社会学と言説分析」佐藤俊樹・友枝敏雄(編)『言説分析の可能性――社会学的方法の迷宮から』東信堂、2006年、183-204頁。

 言説分析と呼ばれる社会学上の方法論は、知識社会学というまた別の社会学上のアプローチと類似していると言われる。実際、両者には共通点もあるが、当然、相違点もある。本論では、これら二つの方法論について比較を行うことで、言説分析のもつ新しさとその限界について検討されている。

 まず、両者の共通点は対象である。つまり、知識や観念といった不可視な実態に着目し、それがいかに構成されるかを考えようとする。これは、従来の社会学が目に見える具体的な行為に着目してきたことを考えると、非常に特異であるといってよい。一方、両者の相違点は真理や主客といった概念を前提とするかどうかで全く逆の立場がとられている。
 そこで、まず知識社会学について具体的な特徴をみてみたい。マンハイムルカーチなどに代表される知識社会学という方法論は、マルクス主義の影響下にある研究法である。知識社会学のは、真理の存在を前提とし、イデオロギーという誤った考えを人々がなぜ抱くのかを説明することを目的とする。このとき、イデオロギーについて研究する知識社会学自身はメタ知識として存在することになる。そのため、知識が知識について正当化しようとする自己言及に陥ってしまうという欠点をもっていた。

 次に、言説分析が他の社会学のアプローチと異なる点についてみてみたい。言説分析のもつ第一の特徴として、真理の対応説をとらないことがあげられる。つまり、真理は言説のシステム内部で構成されると考える。第二に、主客という図式を取らない点である。確かに、言説より小さいカテゴリである言表には特定の主体が想定されるが、言説は多数の人々の言表にまたがった間主観的なものであると考えるのである。第三に、言説を配列・分布させるような力が存在することを想定している点である。これは、フーコーが「権力」と呼ぶものであり、言説分析にとってはこの権力の具体的な作用を実証していくことが目的となる。
 それではこのような特徴をもつ言説分析にはどのような問題点があるだろうか。第一に、ある言説の背後に存在する権力の記述を試みるとき、その言説分析を行う者自身の背後に存在する権力について考察することができない、という点があげられる。第二に、言説分析の方法が「発見的(ヒューリスティック)」であるため、理論をもちえない点である。つまり、言説分析は方法であって、理論ではないのである。そのため、言説分析における研究の良し悪しは、これまでの研究とは異なった言説の配置が発見されたかどうかで決まる。第三に、言説分析は権力がなぜそのように作用したかについて説明することができない点である。つまり、時間の経過によって変化する言説を記述するしかできないのである。そして、第四に、言説分析は「容易に」利用されて、通俗化されてしまうことがある。

 このように、言説分析は、1980年代以降の相対主義的な混乱した精神状況において広く受容され、ある意味では通俗化されていまった。そこで、著者は最後に、言説分析は知識の研究史という文脈において、次の段階に踏み出すべきではないかと提案している。つまり、従来の社会学で研究されてきた「行為」と言説分析の着目する「言語」の関係性に注目することで、それらの接続を試みようとしているのである。その時に手がかりとなるのがヴィトゲンシュタインによる「言語ゲーム」である。言語ゲームとは、言語および行為が従う規則であり、それらの上位概念である。そして、社会は様々な言語ゲームの集積であると考える。このように考えるとき、従来の言説分析で考えられていた、言説の外側にあるものを全て権力という少々乱暴な見方に対して訂正を迫ることが出来る。つまり、言語ゲームのアイディアに従えば、言説の外側には様々な言語ゲームが堆積しており、そのある部分が「権力」であり、また別の部分が「規則」であるとみなすことが出来るのである。そうすることで、これまでの言説分析における忌むべき存在としての権力と、社会が成立するために必要な規則という異なるタイプのルールを峻別することが可能になるのである。