言説分析について(3):香西豊子「解剖台と社会」(2003)

 授業のアサインメントとして、言説分析に関する論文を読みました。これまでは、言説分析に関する理論的な議論をした論文を2本読みましたが、今回は言説分析を実際に用いた論文となっています。

香西豊子「解剖台と社会――近代日本における身体の歴史社会学にむけて」『思想』947、2003年、41-58頁。

 医学史上に「特志解剖第一号」として名を残すミキという女性がいる。彼女は、明治2年に日本ではじめて篤志によって献体を行ったとされ、その献身的な生き様は美談として語り継がれている。しかしながら、実のところ、「篤志」による献体といった言説はそれほど歴史的なものではなく、1960年代になって生み出されるようになった言説なのである。
 本論考は、歴史社会学的な観点から、近世・近代の日本における解剖と献体をめぐる言説に注目し、「篤志」といった言説が生み出される背景にあったエコノミーの存在を明らかにすることを試みている。

 解剖と献体をめぐる言説の中で、「篤志」という概念がそれほどまでに重要な位置を占めていなかったことは、近世の日本に見出すことができる。江戸時代では、解剖のための死体は、刑死体、それも「死罪」となった者たちの身体に限定されていた。すなわち、刑の執行後に「取捨」され、身寄りの手に渡らない状態にされるべき罪状にある者の身体が対象となっていたのである。逆に言えば、本来であれば斬首などによって「取捨」にされるべき身体が、解剖によっても同様の帰結をもたらすことができるため、そのような刑死体のみ解剖として利用することが許されたのである。
 このように刑死後の解剖は、囚人の意志に関係なく執り行われていた。そのため、そこに「篤志」という今日的な契機を見いだすことは出来ないのである。つまり、近世日本のこのような解剖と刑死体の関係は、「取捨」のための解剖という近世日本特有のエコノミーの中に位置づけらる必要があるだろう。しかしながら、これまでの医学史では、この事態を道徳や付加刑といった文脈に位置づけてしまい、近世的なエコノミーが見落とされてしまっていたのである。
 
 その後、明治期に入ると、解剖と献体に関する言説をめぐって新たなエコノミーが形成されていく。この時代、解剖の舞台はかつての刑場から次第に医学機関へと移っていくが、このとき、これまでとは異なる二つの契機が生み出された。すなわち、「無縁」と「施療」という契機によって、死体は医学機関のために解剖へと供されることになるのである。以下、その具体的な事例をみていこう。
 1870(明治3)年には、先にみたミキ女の解剖をうけて、「無縁」の刑死体が大学東校の解剖学教室という医学機関へ自動的に引き渡されるようになった。そして、近世的エコノミーでは限定されていた刑死体の対象はその後広がっていき、獄中死者のうち無縁の者は医学機関における解剖へとまわされることになったのである。さらに、解剖のための死体の範囲は「無籍人」である養育院での病死者や身元不明の行旅死亡者までと広がっていく。一方、「施療」とう文脈では、1873(明治6)年に京都の療病院内に設置された「貧病者室」において、貧民に無料で「施療」を行う一方で、その身体を教育・研究へと供することが求められるようになった。そして、1877(明治10)年にそのような制度が東京帝国大学医科大学付属病院にも導入され、入院時の「剖検願書」を記すことが患者に義務づけられることになる。
 このように、「人体」を解剖という医学の中に回収していこうとする新たなエコノミーの形成をみてとることができる。そして、その際に「無縁」と「施療」が非常に重要な契機となっていたのである。さらに、このような新たなエコノミーは、フーコーが『臨床医学』の誕生の中で、「施療」の実践に「社会性」の立ち上がりを見出したような事態とも一致するのであった。

 そして、このような解剖と献体をめぐる言説の再編成の中で、1960年代からは新たなエコノミーが誕生し、「篤志」という契機が前面へと押し出されていくのであった。「死体飢饉」とまでいわれた戦後の「解剖体不足」を背景として、1970年には日本解剖学会内に「解剖体委員会」が結成され、解剖体対策が講じられるようになる。そして、そこでの議論は「無縁」という契機の代替案として、「篤志」という契機による解剖体収集が議論されていくのであった。このような新たなエコノミーの中で、冒頭にみたミキ女の「篤志」による解剖は、医学の発展に貢献した一人の女性の物語として、語られるのであった。