朝鮮医学の知識・もの・ひとの受容:田代和生「近世前期朝鮮医薬の受容と対馬藩」(1995)

 とある授業のアサインメントとして、近世前期の日本における朝鮮医学の受容について書かれた論文を読みました。(都合により、授業には出れていないのですが 笑)
 個人的には、倭館(朝鮮・釜山)の朝鮮人医師に、対馬藩の医師が医学稽古を受けに行っていたという事実が非常に興味深かったです。また、本論は17世紀における朝鮮医学への眼差しを中心に検討していますが、古医方といった日本流の医学が登場・発展していった18世紀に、その姿勢がどのように変容したかについても気になりました。

田代和生「近世前期朝鮮医薬の受容と対馬藩――医学書・薬種・医師について」山田慶兒・栗山茂久(編)『歴史の中の病と医学』思文閣出版、1995年、265-299頁。

 近世の日本では、中国やオランダから医学知識を受容していたことはよく知られているが、同時期に朝鮮からも医学を取り込んでいたことはあまり知られていない。文禄・慶長の役後、日朝関係が回復し、対馬藩宗家の独占体制のもと、通行貿易が行われるようになるが、そのときに朝鮮医学に関する知識・もの・ひとも日本にも入ってきたのであった。本論文は、医学書・薬種・朝鮮人医師という三つのパースペクティブから17世紀の日本における朝鮮医学の受容について記している。

 おそらく、朝鮮から日本にもたらされた医学として最も有名なのは「もの」、すなわち、朝鮮薬種であろう。中でも朝鮮人参は江戸時代には貴重品として扱われており、幕府や紀州家が朝鮮人参やその他薬種を対馬藩を通じて取り寄せ、江戸の薬園にその種を植え、朝鮮薬種が育てられることもあった。また、利益率も高いため、対馬藩の朝鮮との薬種交易の中でも重要な位置を占めていた。
 さらに、「知識」として多くの医学書対馬へもたらされた。朝鮮医学の最高峰とされる『東医宝鑑』(1613)は、17世紀には幾度も幕府から朝鮮政府に懇願されていたし、他家もそれを求めて対馬藩へ請願した。その後は、『東医宝鑑』に留まらず、鍼灸に関するものを含む多くの医学書を朝鮮政府に懇願し、朝鮮医学の輸入を積極的に試みていた。一方、日本から朝鮮への医書の輸出は行われはしたが、それは中国医学に関するものに限られており、日本の医書が輸出されることはなかった。
 そして医学書だけでなく、実際に「ひと」の交流を行うことでも、朝鮮医学の知識が日本にもたらされた。もちろん、この時期は異国人の往来は厳しく制限されていたため、自由に朝鮮人医師が行き来していたわけではなく、限られた空間における知識の交流に留まっていた。
 朝鮮人医師との交流の手段として、通信使の随行医官は有名である一方で、「渡海医官」と呼ばれる医師たちが、病人を治療するために単独で日本に派遣されていたことはあまり知られていない。ここでの病人とは高位の者に限らず、対馬藩内の様々な者が身分を問わず治療を受けることができていた。そして、朝鮮人医師の優秀さに気づいた江戸の「御老中方」は、朝鮮人医師が対馬藩にやって来たときに、藩内の医師に稽古をつけさせてみてはどうかと助言を与えるほどであった。このように朝鮮医学を受容するために一定の役割を果たしていた「渡海医官」であったが、その派遣は17世紀の後半には中止されてしまった。
 そのため、朝鮮人医師と交流するためには、朝鮮釜山に設置されていた倭館しか残されていなかった。そこでは、朝鮮における医官制度を背景に、朝鮮人医師が日本人に治療・医学稽古を行っていた。その医官制度のもとでは、役職が頻繁に交代させられ、次の役職になるまでの間の空白期間を自らので稼ぐ必要があったため、いわば「つなぎ」のために、高位の医官であっても倭館での治療を行っていたのである。また、対馬藩の医師にとって、倭館へと赴き、朝鮮人医師から稽古をつけてもらうことは、上方へ医学稽古へ行くように、普通に行われていた。倭館での医療交流は、対馬藩の財政状況により縮小されていくことにはなるが、その後も長きにわたって続いたのであった。

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三木栄氏は朝鮮医学史研究の先駆で、本論文も氏の議論に多くを依っているそうです。
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