解剖学書における図像の役割: Kusukawa "The canon of the human body" (2012)

 研究会用のレジュメとして、クスカワ『自然の書物を描く』の「第10章 人間の身体の正準」をまとめました。前章では『人体の構造に関する七つの本』より前に行われた議論が中心でしたが、本章はヴェサリウスの主著である『人体の構造に関する七つの本』を中心に、出版の背景、さらには、ヴェサリウスが本書にこめたねらいなどを、ここでもやはり図像の役割に着目し、説明しています。
 なお、読書会の詳細は下記リンクを。相変わらずドタ参は大歓迎です。
http://d.hatena.ne.jp/hskomaba/20120621/1340259770

Sachiko Kusukawa, "The canon of the human body: Vesalius's De humani corporis fabrica," Picturing the Book of Nature: Image, Text, and Argument in Sixteenth-Century Human Anatomy and Medical Botany, Chicago: Chicago University Press, 2012, pp. 198-227.

Picturing the Book of Nature: Image, Text, and Argument in Sixteenth-Century Human Anatomy and Medical Botany

Picturing the Book of Nature: Image, Text, and Argument in Sixteenth-Century Human Anatomy and Medical Botany

 1543年に出版されたヴェサリウスの主著『人体の構造に関する七つの本』(『ファブリカ』)の序文で、彼は当時の医のあり方が、古代のそれとは異なるものとなっていることを嘆いている。すなわち、古代の医師たちの間では一緒に行われていた養生法・投薬・外科が、ヴェサリウスの時代には別個に行われていると言うのである。そして、医師たちが内科学のみを重視し、それ以外は軽視するようになったと彼は指摘するのであった。そのような状況の中、当時、理髪外科医によって担われている解剖を、自らの手によっておこなうべきだとヴェサリウスは主張した。そのような態度は、自ら解剖を行う彼の肖像が『ファブリカ』に描かれていることにも確認される。その本は、古代ギリシャでそうであったように、また、芸術の本質が求めるように、解剖は自らの手によって行われるべきということを、解剖学の初学者に訴えかけたのである。
 『ファブリカ』における図像の製造過程においては、複数人以上のアーティストが関わっていたと考えられるが、その中の一人カルカーはヴェサリウスの考えを反映させた図像を描いている。例えば、ヴェサリウスは出来るだけ明確に人体の部位を示すため、様々なアングルから人体の構造を示すことに関心をもっていたが、カルカーは骨にチョークや木片を挟むことによって見え方に変化をもたらし、ヴェサリウスの関心を実現させている。ここで注目すべきなのは、ヴェサリウスと『ファブリカ』に関わった他のアーティストたちは、1530年代終わりから1540年代のはじめにヴェネチア内あるいはパドバの近くで活動的であり、それ故、図像に関する類似の語彙を彼らに共有させたと思われる点である。現在では、誰が下書きを描き、木版を削っていたかを特定することはできないが、いずれにせよ、ヴェサリウスとアーティストたちの間には非常に緊密な協働があったのである。

 そのような背景のもと出版された『ファブリカ』において、ヴェサリウスは図像に何を期待したのであろうか。その本に見いだされる彼のねらいとは、図像によって読者に人体の層、および深さを知ってもらおうとしていたことある。そのため、ヴェサリウスは読者が筋肉の図像をみたあとに、ページの前に戻ったり、先に進んだりすることで、その筋肉の上部と下部にあるものの存在を捉えてもらおうとした。そして、人体の層・深さへの理解を促進するために、ヴェサリウスは慣習的な本の読み方だけでなく、別の読み方も勧めていた。例えば、『ファブリカ』の要約版である『エピトーメ』においては、本の最初にある骨の記述から本の真ん中にある男女の裸体の図像までを順番に読み進めるという普通の読み方だけでなく、男女の裸体という表面的な記述から、骨という内部の記述へと読み戻っていくという読み方も推奨している。つまり、文字よりも図像の方が描写するような力があると考えているのである。ただし、ヴェサリウスはものを見ることと、図像(表象)を見ることの間に質的な違いを認めているという点には注意しておかねばならない。
 フックスやその他ルネサンスの学者がそうであったように、ヴェサリウスもまた、「完全な(absolute)」身体をどう定義するかをよく検討している。ガレノスにとっての完全な身体とは、古代ギリシャの彫刻家ポリクレイトスが製作した「カノン(正準)」という像のように、身体の各部位が完璧に釣り合った人体が想定されていた。しかし、公開解剖の場においては、解剖体は刑死体ばかりであり、ガレノスが完全であるとした身体とはかけ離れていた。そのため、そのような身体から「正準」へと言及できるかどうかは問題であった。それに対してヴェサリウスは、ガレノス流の「完全さ」とは異なった意味を用いることで、その問題の乗り越えをはかっている。つまり、「完全である」という語を、どの部位も失われていない全体の身体を指すだけでなく、奇怪な部位をもっていない(超自然的な部位をもたない)身体を、「完全な」人物の身体であると捉えるのである。そう考えることで、ヴェサリウスは公開解剖における解剖体からも、自然に関する知識を導き出そうとしたのであった。
 それでは、正準的で、自然な人間の身体の構造というのは、どうやって決定できるだろうか。このような問題の手がかりとしては、アリストテレス以来、「頻度」というのが重要であると考えられていた。例えば、胸椎の数は普通は12個であるが、まれに11個あるいは13個である場合がある。つまり、12個であることが自然な事例で、11個または13個であることは超自然的な事例であるとされる。そして、そのような「頻度」の問題をヴェサリウスは共同墓地や食卓に出された動物の骨などによって確かめるであった。しかし、「頻度」が人体の構造を決定する十分条件であると、ヴェサリウスは考えなかった。例えば、ヴェサリウスはそれを『ファブリカ』において、小指の中手骨と手根骨の間には非常にまれにしか見られない小骨を描いている。つまり、頻度という観点では小骨は自然なものであるとは考えにくいように思われるが、それにもかかわらず、ヴェサリウスは彼独自の目的論的な説明を小骨に与え、小骨を自然なものであると捉えているのである。このように、ヴェサリウスの示した図像は「模倣品」ではなく「正準」として描かれている。そして、解剖学的な構造の目的論的な原因(cause)をつくることで、その「正準」は決定されるのであった。
 ヴェサリウスはまた、『ファブリカ』において、人間と動物の解剖図を示すことによって、ガレノスやアリストテレスといった権威の議論を問題化した。ガレノスは人間を解剖することを認めておらず、動物の解剖のみをおこなったが、ヴェサリウスは自らの手で人体解剖をおこない、ガレノスの議論の修正を試みたのである。その際、ヴェサリウスは人間と動物の構造の図像を並置することにより、ガレノスと自らの議論の相違点を比較している。例えば、犬の顎の骨に重なるように人間の頭蓋骨を描くことにより、ガレノスが行った頭蓋骨の縫合線の記述が、人間より犬の方に合っていることを示した。また別の例として、ヴェサリウスは人間の解剖図を描くときに、動物にはあるが人間にはない部位もその解剖図に書き入れた。そうすることで、ガレノスの議論を知っていると言うことを読者に示しつつ、同時に、ガレノスの議論との比較を容易に行わせようと配慮したのであった。

 以上のように、『ファブリカ』に描かれた図像は、人間のものばかりであったわけではないし、動物の部位を含んだ人間の解剖図は「正準的な」身体をいつも描いていたわけではない。むしろ、古代医学の知識にも適うような人間の解剖学的知識を新しくかつ適切に復活させるべく、正準な身体、目的論的方法、古典医学の権威が『ファブリカ』の図像において統合されていたと言えるのである。

関連文献

澤井直「ルネサンスの新しい身体観とアナトミア――西欧初期近代解剖学史の研究動向」『ミクロコスモス――初期近代精神史研究』第1集、月曜社、2010年、348-365頁。

ミクロコスモス 初期近代精神史研究 第1集

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最近では、解剖学史を医学史として捉えるだけでなく、文化史や美術史などとの関連において論じた研究が出てきています。本論文は、そういった解剖学史についての研究動向を、ヴェサリウスについての研究を中心に紹介しています。