情報を取り扱うことの歴史と文化:Blair "Information Management in Comparative Perspectives" (2010)

 読書会のレジュメとして、ブレア『あまりに多くて知ることが出来ない』の「第1章 情報を取り扱うことの比較史」という章をまとめました。なお、読書会の詳細は下記から。
http://d.hatena.ne.jp/hskomaba/20120628

Ann M. Blair, "Information Management in Comparative Perspectives," Too Much to Know: Managing Scholarly Information before the Modern Age, New Haven & London: Yale University Press, 2010, pp. 11-61.

Too Much to Know: Managing Scholarly Information before the Modern Age

Too Much to Know: Managing Scholarly Information before the Modern Age

 ルネサンスという時代はかつてないほど過剰な情報に直面していた、というのは初期近代の研究者であれば同意するところであろう。実際、新世界の発見、古代テクストの復活、出版技術の普及などにみられるように、この時代に多くの情報が西洋社会へ普及していったとこれまでの研究者は論じてきた。そんな中、著者のブレアは「過剰な情報」に関するこれまでの見方に対して、まず、過剰な情報を経験したのはルネサンス期のヨーロッパに固有というわけでないことを指摘している。次に、ルネサンス期の教養のある者たちが情報を蓄積したり、うまく取り扱ったりしようと欲した背景には、ルネサンス以前からある「情報への強迫観念」などの文化的な要因があったと強調し、新たな視点を導入することを試みている。

 そこでまず、古代において既に情報を蓄積し、上手く取り扱うことに関心がもたれていことが確認される。アレキサンドリア図書館は古代世界において最大級のコレクションを誇ったが、それによりおそらく最初の大規模レファレンス・ツールが誕生することになった。ピナケスと呼ばれるこのツールは、図書館の広範な蔵書に基づいて、古代ギリシャ文学の書誌情報をまとめたものであった。ローマやカエサリアでも同様で、大規模な情報の蓄積が行われ、本や文字の豊富さをうまく取り扱うために新しい方法が考案されたのであった。結局、様々な理由により、これらの方法は西洋ラテン世界には伝わることはなかった。
 西洋ラテン世界外部のさらなる事例として、次に、ビザンチン(東ローマ)帝国、イスラーム世界、中国が検討されるが、それらの世界でもまた豊富な情報をいかに取り扱うかについて、様々な態度・方法がとられていた。そしてこれは、西洋社会とは独立に行われていたのである。まず、ビザンチン帝国では9世紀終わり頃から、コンスタンティノス7世の奨励のもと、古代ギリシャの知識の復興がおこなわれた。彼は、情報の豊富さは何世紀にもわたる安定的な知の蓄積の結果であると考え、情報を取り扱う方法として、選集を編むことを重視していた。次に、イスラーム世界では、宗教的なテクストはモスクにおける口伝によって伝えられていたが、9世紀頃からは本としても出版されることになった。情報を取り扱う方法としては、選集や要約、目次といった古代ギリシャビザンチンでもみられる方法が確認できるが、イスラーム世界では記憶や師から弟子へと個人的な情報源の移動が重視されたため、索引などの有効性は限定的であった。最後に中国でもまた、他の地域と同じように権威のあるテクストが検討され、要約されたが、中国に特徴的なのはそういった情報管理を担った機関である。つまり、一方では皇帝が主導となってコレクションをおこない、もう一方では官吏登用試験の対策として、古典の内容の要約・撰要が行われていた。
 ルネサンス期における情報の豊富さは、これまでの初期近代研究者が述べてきたところであるが、その情報を取り扱う方法が中世に生み出された方法を基礎として成り立っていたことはあまり知られていない。特に13世紀は、聖書の用語索引やヴァンサン・ド・ボーヴェ 『諸学の鑑』など、最も重要なレファレンス・ツールが誕生した時期であるが、それらの誕生の背景には宗教的な背景が関わっていた。例えば、ドミニコ会による宗教的な施設では、聖書に出てくる言葉をまとめ、索引を付すという機能をもっていたし、説教者たちは説教の質や容易さを改善したいという欲求をもっていた。このように、中世はアルファベット順の辞典、体系的な百科事典、目次、文献・アルファベット順の索引、正確な引用、見出し、といった多くの方法が考案され、ルネサンス期における情報の取り扱い方法の発展の基盤となっていたのである。このように、ルネサンス期の西洋以外の時期・場所においても、人々は情報をうまく取り扱おうと試みてきたのであった。

 そして、ルネサンス期における印刷技術の誕生は、情報の生産・普及のための新たな可能性を生み出し、同時に新たな制限も生み出した。ある者は印刷技術を神の発明であるとたたえ、複写にかかる時間の短縮、値段の低下、さらには本の保存という恩恵を享受した。そして、またある者は、ろくに吟味もされず選ばれた写本が印刷され、出版物の質を低下していると批判したのであった。いずれにせよ、16世紀までには本が豊富にあるということが、多くの人々の間で意識されるに至ったのである。
 このようなルネサンス期の情報爆発を論じる際、ブレアは文化的要因として、知識人たちの間の情報に対する新たな態度に注目する。つまり、古代知識の損失に苦しむ彼らは、情報を探し求め、どんな文字でさえも蓄積しようという姿勢をもっていたのである。例えば、16世紀はじめ、エラスムスは古代のテクストより価値が低く、真の学習から遠ざけてしまうような悪書が新たに多く生み出されているような状況を非難し、良書が失われてしまわないようにと警告する。そして、彼の後に続く論者もまた、くだらない本が増加していたり、相反する新しい考えが跋扈していたりすることによって、読まれるべき本が埋もれてしまっていることを問題化した。
 18世紀になると、これまでのような特定の本を精読するという読書法から、出来るだけ多くの本を読みこなすという読書法への転換、すなわち「読書革命」が起こったと歴史家は述べてきた。しかし、著者はそのような見方もまた一面的であるとして、過去との連続性にそった、新たな読書法の発展・波及に注目を促す。16世紀にエラスムスが豊富な本を前にしてもらした不満に共感しつつも、一方で以前より学習水準が改善されていることに対して素直に満足を示す者があらわれる。つまり、かつての考えを部分的に引き継ぎながらも、18世紀という、世界が広がり、学ぶべき事も多くなった時代において、学びが社会に広がることを評価するという新たな姿勢があらわれるのであった。