飢饉・疫病の発生と医療への期待:菊池勇夫「飢饉と疫病」(1994)

 菊池勇夫『飢饉の社会史』(1994)の飢饉と医療の関係について論じた章を読みました。本書は江戸時代の飢饉が領主・民衆へと与えたインパクトと反応に注目し、「飢饉の社会史」という主題をはじめて検討した文献ですが、医療史とも関係が深い「第七章 飢饉と疫病」をまとめてみました。

菊池勇夫「第七章 飢饉と疫病」『飢饉の社会史』校倉書房、1994年、225-259頁。

飢饉の社会史

飢饉の社会史

 江戸時代に起きた三大飢饉(あるいは四大飢饉)を論じた先行研究では、飢饉による飢人・餓死者とそれに対する救貧・防貧政策などが中心に論じられてきた。しかしながら著者は、餓死者だけに注目するのではなく、飢饉の後に流行した疫病のインパクトに注意を促している。本章では、主として天明の大飢饉(1782-1788年頃)による東北地方への影響が検討されるが、そこでみられるのは、飢饉の後に必ずといってよいほど発生する疫病の猛威である。飢饉による餓死者は、食料の欠乏に由来するためほとんど下層民層に限定されていたが、一方の疫病による死者は、下層民にとどまらず裕福なものにまでその猛威が達していた。このように、飢饉以上のインパクトをもつことがあった疫病は、宝暦・天保の飢饉においても同様の脅威が確認されるのである。
 そのような疫病の流行に対して、領主あるいは民衆は宗教的な儀式によって対抗を試みた。例えば、領主側はその権力を十分に発露させ、領内全域に「祈禱札」を配布したり(弘前藩)、領外からの霊験を導入したりする(弘前藩)ことで時疫退散を試みていた。一方、地域共同体レベルでも別の宗教的な対応がなされており、東北地方では「ボウオクリ」と呼ばれる疫神送り、疫病祭が(飢饉下に限られたわけではないが)行われた。しかしながら結局、領主レベル・地域共同体レベルのさまざまな試みにもかかわらず、疫病流行は容易にはおさまらず、ともすれば領主の威光の無力さをさらしかねない事態ともなった。
 このように、飢饉をきっかけとして、人々の間での宗教的な儀式が活発化していったが、一方、医療に対する期待もまた高まっていった。医療史においては、民衆の間に医療が浸透していくのは18世紀後半からとされるが、ちょうどその時期に含まれる天明の飢饉の後は、領主や民衆もまた医療を積極的に活用するという姿勢があらわれはじめる。例えば、弘前藩米沢藩など一部の藩は積極的に民衆へ施薬をおこなっていたし、天保の飢饉(1833-1839年頃)の後はさらに多くの藩が施薬を行うようになっていた。また、徳川幕府は1733(享保18)年に飢饉後の時疫流行対策として簡便な薬の製法を奥医師たちにまとめさせ、それを幕府直轄領に対して触渡していたが、その触書と同様のものが天明天保の飢饉後にも達せられている。そして、そこで示された施薬の内容は、東北諸藩の藩役人あるいは民衆の間で取捨選択されながらも活用されたのであった。
 以上のことからわかるのは、飢饉と時疫を契機として、かつて塚本学が指摘したような「民衆知」が18世紀後半から進展していく様子である。つまり、「経験値を基本にして、そこに文字文化を取り込んだ文化」は医療においても確認できるのであった。

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