大正期の障害児教育:高野聡子・松矢勝宏「川田貞治郎の偉績」(2008)

 縁あって、大島にある藤倉学園を訪れています。本施設は川田貞治郎(1879-1959)によって1919(大正8)年に創設された、知的障害者のための施設です。そこで、今回は創始者である川田の履歴について簡潔に記した文献をまとめました。なお、著者の一人である高野さんは川田の思想や藤倉学園の歴史について、障害児教育史の観点から多くを明らかにしています。

高野聡子・松矢勝宏「川田貞治郎の偉績――知的酒害がある子どもの教育的治療学の研究と実践」『さぽーと』55(7)、2008年、49-55頁。

 藤倉学園は大正期における数少ない精神薄弱者のための施設である。その創始者である川田貞治郎は、「心練」と呼ばれる訓練によって、精神薄弱者に対する教育をおこなっていた。そうすることで、彼らの社会復帰を手伝おうとしていたのである。「教育的治療学」と呼ばれる彼の思想は当時においても特徴的であるといえるが、彼のその思想は何に由来するのであろうか。本論では、藤倉学園創設前の感化施設・精神薄弱者施設での経験およびアメリカへの留学経験を手がかりとして、彼の思想の変遷が概説されている。

 茨城県真壁郡豪農の家に生まれた川田は、はじめ、医師になるべく開成中学校で学んでいた。しかし、キリスト教への関心が次第に高まったことをきっかけに、開成中学校を退学し、青山学院大学に入学した。さらに、普及福音神学校(新教神学校)で宗教学を学び、医者になるというコースとはまた別の道を選択したのであった。
 1909(明治42)年には神奈川県の感化教育施設・小田原家庭学園の主任となるが、彼の「教育的治療学」の萌芽を既にこの時期に見出すことができる。小田原家庭学園では不良少年の感化に関心をもち、「心整法」、「音楽からの心整法」、「皮膚より心練」の3つからなる「心的矯正術」(「心練」)を考案した。そして、1911(明治44)年にそこでの経験を『心練学』としてまとめあげている。同年、茨城県渡里村の低能児教育施設・私立日本心育園を創設し、精神薄弱児を対象とした教育・保護に取りかかり始める。そこで川田が掲げた目標は、低能児たちが学園を修了したのち、学園外で生活していけるような教育をおこなうことであった。
 しかしながら、日本心育園での臨床的な成果は十分ではなく、日本に即したよりよい教育法を考案するべく、川田はアメリカに留学する。そして、1916(大正5)年から1918(大正7)年までの間にニュージャージー州のヴァインランド施設、ペンシルヴァニア大学、ペンシルヴァニア州ウェスタン・ペンシルヴァニア精神浮弱施設の三カ所を滞在・訪問している。特に、ヴァインランド施設では、アメリカの精神薄弱研究の権威であるエドワード・R・ジョンストンやヘンリー・H・ゴダードに学び、ゴダードの主たる関心であった精神薄弱の遺伝法則に高い関心をもっていた。そして、同施設で学んだ精神年齢やIQによる精神薄弱分類基準は、のちに藤倉学園でも導入された。
 帰国後、川田は1919(大正8)年に藤倉学園を創設したが、そこでの川田のプロジェクトはアメリカにおける精神薄弱に対する思想とはいくつかの点で異なっていた。第一に、教育可能な対象についてである。川田はその対象を低能児(中度の知的障害)だけでなく、白痴児(重度の知的障害)をも含めていた。川田の学んだアメリカの施設では、その対象が白痴児に限定されていたことを鑑みると、川田の思想は特徴的であると言えるだろう。第二に、施設の目的についてである。1910年代のアメリカでは、精神薄弱者脅威論に影響を受けながら、精神薄弱者施設内での保護・隔離を目的としていた。一方、川田は渡米前からの思想を維持し、施設内の保護を批判し、教育による社会復帰を目指そうとしていた。著者らによれば、これは当時の日本の精神薄弱児施設があまりに少なく、家族による彼らの保護が前提とされていたことに由来するという。
 このように川田は、アメリカの精神薄弱研究から多くを学びつつも、日本の環境をふまえつつ自らの障害児教育思想を発展させたのであった。

関連文献・リンク

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障害児教育の歴史

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