名君がつくられるとき:加藤民夫「佐竹義和時代の文教政策」(2005)

 修論執筆のため、秋田藩の藩政史に関する文献を読みました。

加藤民夫「佐竹義和時代の文教政策――『御亀鑑』の記事を柱として」『秋田県公文書館研究紀要』11、2005年、1-19頁。
http://www.pref.akita.lg.jp/www/contents/1134102834158/files/kiyou11.pdf

 江戸時代中期の藩政改革の模範とされる熊本藩主の細川重賢や米沢藩主の上杉治憲(鷹山)は「名君」として知られている。本論で注目される秋田藩第九代藩主・佐竹義和もまたそのような存在として知られるところであるが、そもそも「名君」とはどのような存在なのだろうか。何故、「名君」と呼ばれるのか。どうやって「名君」はつくられるのか。本論では、名君という存在をその人のカリスマ性によるものとして短絡的に捉えるのではなく、名君を指導し、支えた周囲の官僚・執政などに注目し、名君・佐竹義和の実態に迫ろうとしている。

 父・義敦が1785(天明5)年に死亡したことに伴い、義和はわずか11歳という若さで藩主となるが、1792(寛政4)年までは叔父・義方が後見役として実質的な政治を執り行っていた。そのため、彼が幼い頃は教育期間であり、藩の統治作法や統治理念について学んだ。1781(天明元)年からは、廻座身分の疋田定常から帝王学についての指導を受け、学問や統治理念については京都堀川学派の儒者・村瀬栲亭から教授を受けた。
 ここで注目すべきは、定常や栲亭による若年期からの指導が、のちの義和の藩政を大きく方向付けたという点である。栲亭は義和に君主の統治者としての心構え、および、財政再建への対応という2つの指導を行った。前者には藩校の設立による賢人の登用、「孝経」の重視、質素倹約などが含まれ、後者には農本主義の採用、飢饉への対応などがあった。一方、定常は義和に統治者の心得として、「慎み」と「堪忍」をもつことであるとした。定常がこの2つに絞った理由は、江戸城内での藩主の短慮が領国の改易につながる事件が多々あったことに対する予防策としてであったと考えられる。
 そして寛政年間(1789-1801年)に入ると、幼少期から学んだ統治理念に基づいて、義和は政治改革を断行する。その最大の功績として知られる藩校・学館の設立は、学問の力がなければ「時務」を遂行できないという、彼が若き頃に学んだ学問重視の姿勢を具現化したものである。実際、学館で学んだ秀才たちは数年後に勘定奉行や郡奉行などの要職に抜擢され、義和の思い通り、藩政を陰で支えることになった。同時に、藩史の向学心に刺激を与えた学館の設立は、門閥に安住する子弟たちの怠慢を戒めるという効果ももっており、父・義敦時代の失敗からも多くを学んでいた。
 さらに1804(文化元)年頃からは、学問・文化を重視する義和の関心は民衆の教化に向かっていく。そのためにまず、義和は自ら農村を巡回することによって、領民の暮らしや風俗を直接知ろうとした。そして、栲亭に教わった儒学の精神をもって、民衆たちの教化をはかったのであった。例えば、経費を切り詰めて浮いたお金を村の肝煎への謝礼や孝子表彰の費用に充てるなどして、領民への還元を積極的におこなったのであった。

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