近世後期における鉱山病対策:内藤正中「石見銀山の鉱山病対策」(1989)

内藤正中石見銀山の鉱山病対策――宮太柱の『済生卑言』」『日本海地域史研究』9、1989年、263-284頁。

 江戸時代の鉱山における労働環境は悲惨であった。鉱山内に立ちこめる有毒ガスによって、身体を壊さざるを得なかった鉱山労働者たちは、採掘をはじめてからすぐに鉱山病に罹り、若くして死ななければならないことが多かった。例えば佐渡金山や石見銀山では、「四十をこえたるはなく、多く、三年、五年の内に肉おち骨かれて、頬に咳出て、煤のごときもの吐きて死」んでいったという(川路聖謨『島根のすさみ』)。本論は、鉱山病にかかって短命で死んでいく鉱山労働者たちに対し、石見銀山における対応について考察がなされている。
 石見銀山の鉱山労働者たちに対する対応は、近世後期になってやっとはじまった。例えば、「勘弁」と呼ばれた銀山町の生活困窮者への手当があった。さらには、流行病に感染した者に対しては米が支給されてもいた。その他にも、子どもに対しての養育米の支給、鉱山病によって働けなくなった鉱夫に対すしての救助米の支給、そして鉱山が早期発見された鉱夫に対しては保養薬として大豆や糀が支給されていた。このように、石見銀山での対応のほとんどは事後的なものであった。
 一方、そんな中で唯一予防的な側面をもっていたのが、備中笹岡から招聘された町医・宮太柱による鉱山病調査とその対策である。同じく笹岡の本草学者であった中村耕雲の紹介により、石見国大森代官所に紹介された太柱は、代官・屋代増之助に命ぜられ、1855(安政2)年より石見銀山でのフィールドワークや関連文献の調査をおこなった。そして、同年に「銀山鉉子病気治療方及び通気管設置」をとりまとめ、その調査結果を代官所へ提出している。
 この報告の中で注目されるのは、これまで後手後手になりがちだった鉱山病対策について、積極的な予防策を講じようとした点である。例えば、鉱毒の種類が分類され、鉱山病の原因が考究されている。さらに「治術機器」として6つの機器が紹介されている。その中の一つである福面と呼ばれるマスクは、梅肉をはさんで鉱夫に着用させ、一定の効果が得られたと記されている。さらには、鉱夫に対して日光浴を奨励しており、それにより筋肉を強健にしようとしている。以上のように、町医・宮太柱によってなされた鉱山病対策は、石見銀山における鉱夫への対応の中では特徴的な位置づけにあるのであった。
 なお、太柱が代官所に提出した「銀山鉉子病気治療方及び通気管設置」は、後に「済生卑言」としてまとめられている。そして、本論文はその翻刻(第4節、273-284頁)を所収しており、その意味でも重要な論考となっている。

関連文献

本書には「鉱山病」という章が所収されており、近世期の鉱山病についてさまざまな事例をあげて論じられています。

近世鉱山をささえた人びと (日本史リブレット)

近世鉱山をささえた人びと (日本史リブレット)