医の学統と公儀による統制:海原亮「江戸時代の医学教育」(2012)

 江戸時代の医学教育に関する海原亮氏の優れた文献を読みました。このトピックは、かつて山崎佐『各藩医学教育の展望』(国土社、1955年、限定刷)において、先駆的かつ概略的な研究が提示されましたが、その後に続く研究成果はほとんど出ていないというのが現状です。ここ50年の間には各自治体史の相次ぐ出版、そしてそれによる新事実・新資料の発見がおこなわれており、医学教育という重要な研究テーマのさらなる活性化が期待されるところですが、本論考はその新たな医学教育史に向けた先鞭となることでしょう。

海原亮「第一章 江戸時代の医学教育」坂井建雄(編)『日本医学教育史』東北大学出版会、2012年、1-33頁。

日本医学教育史

日本医学教育史

 江戸時代の医師は基本的に自らが医師であると名乗ってしまえば医師でありえた。つまり、公儀(幕府・藩)が医師という身分に対して厳密な定義を与えていたわけではなかった。もちろん、人々の間では医師の技量を推し量るために、その医師がどういった学統=師弟関係を取り結んでいるのかが重要性をもっていた。すなわち、江戸時代における医学教育というのは、基本的に師弟関係を基礎にして成り立っていたといえる。そして、そういった師弟関係は、伝達される医療技術や医療内容を秘匿することを前提として結ばれていた。
 しかしながら19世紀の初頭にもなると、このような閉鎖的・守旧的な医師の学統や制度に対する批判が生まれてくる。たとえば、1810(文化7)年に大槻玄沢は「御医師育才呈案」において、自らの仕官する仙台藩の医師専門教育に関する提案を行っている。そこでは、仙台藩に既にあった医学校は幕府医学館のカリキュラムにならうべきとし、旧態依然とした既存の医療制度は批判にさらされている。たとえば、玄沢はこれまで絶対視されていた「師家・弟子筋」システムを疑問視し、生まれなど偶然的な契機によって師弟が決定されべきではなく、藩がそれらを管理・統制すべきだとしている。また別の例として、江戸時代の医療の中では軽んじられる「雑科」(外科・針治・眼科・口科)に注目し、本道医(内科医)と同じぐらい雑科に関する専門的な研鑽が必要であるとした。
 ただし、公儀=藩による医学教育の積極的なコミットメントを提案する玄沢の主張は、彼独自のものであったわけではない。むしろ、それは18世紀後半から19世紀にかけて設立されていく医学教育機関の動向とかなりの程度一致している。たとえば、福井藩(福井・府中)では、藩医上層部の浅野道有らによって1805(文化2)年に医学所が設置されているが、ここでも玄沢の考えにもあったような、医学の学統・教育に対する公儀=藩の積極性をみてとることができる。たとえば、領内の医師の情報共有や医師への教育をはかるために、藩が主導となって薬品会や観臓(人体解剖)をおこなっている。
 著者が長らく主張してきたように、江戸時代の公儀=幕府の医療統制はかなり限定的であり、公儀=藩というレベルにおいてもそれは同様であった。しかしながら幕末期になると、藩のなかでの医学教育機関の重要性はかなり増していくことになった。1857(安政4)年には福井藩の医学所は大幅なカリキュラム変更がなされ、医師のキャリアに関するより具体的な制度設計がなされた。つまり、医師の重要性を前提とし、領内の医療環境を維持するための制度を整えていったのであった。

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