公儀による医師統制の方法:上野周子「紀州藩の医療政策と地域社会」(2007)

上野周子「紀州藩の医療政策と地域社会」『三重大史学』7、2007年、1-20頁。

 1980年以降、医療の社会史研究は飛躍的に進展した。とりわけ、在村レベルの蘭方医や地域における民衆への医療の実態がかなりの程度明らかにされた。一方、領主権力が医師に対してどのように対応していったかについては、それほど十分な検討が行われていない。そこで、本論考は紀州藩の医療政策に着目することで、領主権力と医師・医療の統制の一側面を明らかにすることを試みている。

 1791(寛政3)年、紀州藩は医学校として「和歌山医学館」を設立した。医学館では他藩の医学校と同じように職員による漢方医学書の行読・講釈・会読が行われていた。しかしより重要なのは、医学館が領内の医師に対する取り締まりを行おうとしていたことであろう。その一つに医師に対する試験が挙げられるが、これは当初開業予定の医師を対象としたものであったが、後にその対象が領内の全ての医師に広げられている。このような和歌山医学館のシステムは、幕府の医学館のそれとかなりの程度一致していることから、紀州藩ではそれに倣っていたと考えられる。また別の例として、1839(天保10)年には民間の医師を取り立てて、「医師取締役」を設置している。つまり、彼らに他所から来た医療行為者を取り締まらせたり、領内の医師に義務づけられた寄付金の徴収を行わせたりすることで、間接的に領内の医師を把握・統制しようとしたのである。そして同時に、領内の医師たちにとっても自らが公的権力の支配下にあるということを意識づけられることになったのである。
 一方、このような領主による直接的な医療政策だけでなく、幕府の旅人への保護政策によっても、医師たちは間接的に統制・管理の対象となっていく。1767(明和4)年、幕府令により街道筋の村で行き倒れの人が生じた場合、その村での治療・看護が要請されるようになったが、そのことにより地域レベルでも医師を設置する必要性が生まれた。そして、当初は行き倒れ人の治療を期待されていた医師であったが、その後、死亡診断書を書き、大庄屋に提出するという役割も期待されるようになっていく。このように、藩による医療政策の直接的な影響によってだけでなく、幕府の保護政策という間接的な影響によっても、公的な存在であるという医師のプレステージが形成されていくのであった。