漢方医の修行と幕末期医師の多様なライフコース:長田直子「幕末期在村における医師養成の実態」(2002)

 明日(日付変わって今日)、「近世後期の秋田藩における医療政策」という題目で、洋学史学会月例会で発表させていただくのですが、近世日本の医療史を専攻する長田直子さんもご発表されます。そこで、長田さんが幕末期の医師養成の実態について論じた研究論文をまとめました。
 ちなみに、月例会の方は会員・非会員にかかわらず、どなたでも無料で参加できますので、お時間ある方は是非ともお越しください。詳細は下記URLにて。
http://yogakushi.jpn.org/yogakushi/announcements.html

長田直子「幕末期在村における医師養成の実態――本田覚庵と三人の弟子を例にして」『論集きんせい』24、2002年、44-72頁。

 塚本学によって、18世紀中頃から在村レベルでの医療需要が高まったことが指摘されて以来、医療の社会史研究では在村における医療実態を把握することが試みられてきた。本稿ではそのような問題意識を受け、幕末期の武蔵国北多摩郡府中領下谷保村(現、東京都国立市谷保)の産科医・本田覚庵(1813-1865)が弟子をいかに養成したのかについて、その実態を明らかにすることを試みている。

 まずは、本田覚庵の履歴についてみてみたい。1813(文化10)年に生まれた覚庵は、二十歳の頃から江戸の産科医のもとで修行し、医学に関する知識だけでなく、芸能・文化について学んだ。そして1833(天保4)年に帰郷し、故郷の谷保村で医療をはじめた覚庵は、漢方薬を中心とした治療をおこない、地域に根ざした医療活動ををおこなっている。また、彼は産科医でありながらも眼科や外科などの往診を毎日のようにおこなっていた。診察した患者の男女比はおおよそ6:4であったが、女性が4割も占めていることは当時としてはかなりの高い割合であり、この点からも彼が産科医として活躍していたことが想像できる。
 それでは、覚庵はどのように医師を養成したのであろうか。1860-1861年にかけて、3人の者が同時に覚庵のもとで修行をおこなっているが、彼らの修行内容は薬の調合をおこなったり、覚庵とともに往診に出向いたり、覚庵が行けないときに代診に行ったりするなどであった。そういった修行を通じて、弟子たちは師から医学を学びつつ、同時に、師はそのような弟子の助けを得ながら診療をスムーズにおこなおうとしていた。いわば、両者は相互依存の関係にあったのであり、事実、誰かが退塾したときには覚庵は新しく弟子をとり、常に2、3名の弟子が自らのもとにいるようにしている。
 退塾した後の弟子たちは、医師として三者三様のライフコースをたどっている。ある者は漢方医としての実力を磨くため、さらに修行を重ねた後、故郷で開業をしている。別の者は漢方医学の限界を感じ取り、いち早く長崎に赴き、長崎養生館のオランダ人医師ボードウィンのもとで修行をしている。そしてまたある者は、故郷で種痘医として活躍し、さらに後、大学東校(のちの東京大学医学部)で学んだのであった。

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