江戸における蘭方医の隆盛と近郊農村医療の変遷:長田直子「近世後期における患者の医師選択」(2004)

 本日の洋学史学会月例会の予習もかねて、長田さんの優れた研究論文を読みました。ロイ・ポーター以降、海外では患者の視点からみた医学史研究が数多く提出されましたが、日本の医学史研究では残念ながらそういった視点にたった研究はまだ多くありません。そんな中で、本論考のように近世日本における患者の医師選択を主題にした研究は非常に貴重であり、今後、同様の研究をおこなう上では良いモデルとなると思います。

長田直子「近世後期における患者の医師選択――『鈴木平九郎公私日記』を中心に」『国立歴史民俗博物館研究報告』第116集、2004年、317-342頁。

 本論考は近世後期・幕末期における都市近郊農村における患者の医師選択の実態についての研究である。その際、武州多摩郡柴崎村(現、立川市)の名主・鈴木平九郎が1837(天保8)年から1858(安政5)年までの約20年にかけて記した『公私日記』を主たる手がかりとし、鈴木家および平九郎の生家である中嶋家がどのような医師にかかっていたかを明らかにしている。

 先行研究で既に指摘されているように、近世の在村での医療は18世紀から化政期にかけて徐々に医師が増え、化政期から幕末期にかけて医師が増加・再生産がなされるようになっていった。本論で着目される多摩地域も同様の傾向を持っており、化政・天保期以降、医師の数が増大している。ただし、鈴木平九郎の住む柴崎村は長らく無医村の状況が続いており、「渡り医師」と呼ばれる非定住医や近村の医師に治療を求めながら、自村の医療需要をまかなっていた。
 それでは具体的に『公私日記』から確認できる患者の医師選択について確認したい。化政期から天保期にかけて、鈴木・中嶋両家の「かかりつけ医」とも呼びうる医師は、鈴木家と血縁関係にあっった漢方医・白鳥彝斎であった。彝斎の居む村は柴崎村からは三里余り離れており、もっと近くにも医師はいたはずであったが、その血縁関係が重視され、鈴木家・中嶋家のかかりつけ医となったと考えられる。また、眼科や外科など専門性が高い治療が必要なときは、多少遠方であっても専門医にはじめからかかることが多かった。
 その後、弘化期から幕末期にかけては、かかりつけ医の白鳥氏をメインとしながらも、医師選択の幅が広がるようになっている。弘化期は江戸で蘭学塾が隆盛をきわめ、多摩地域からも多くの入門者がいたが、医師選択のオプションの中にも蘭方医が加わっていくのであった。ここで注目すべきは、伊東玄朴や大槻俊斉をはじめとして、当時の江戸のトップクラスの医師たちにも村の人々が診療を求めるようになった点である。実際、鈴木・中嶋両家でも肺病や眼病にかかったとき、最初は近村の医師から診察を受けつつも、のちに江戸の医師に対しても治療を求めている。そしてさらに、他家の場合では、江戸で治療出来ないと判断された場合、佐倉町(現、千葉県佐倉市)の佐藤泰然(のちに蘭学塾「佐倉順天堂」を開学)へと赴くケースもあり、この時期に医師の選択肢が増えていることが確認できるだろう。
 このように、弘化期以降、鈴木家・中嶋家など多摩地域の医師選択は、江戸の高名な蘭方医などにも積極的にかかるようになっている。そして、これは江戸の医師とのつながりの存在、江戸から一日で行ける都市近郊にある農村であった地域性、さらには有名医にかかれるだけの経済力などがあって可能となったと考えられるのであった。