教育・統治・医療の場としての郷校:工藤航平「地域史からの「郷学」の再評価(2008)

工藤航平「地域史からの「郷学」の再評価――明治三年前橋藩領川島分界の川島書堂創設を事例に」『文書館紀要』21、2008年、77-105頁。

 郷校は近世から近代初期にかけての教育機関の一つであるが、これは藩校とも寺子屋とも異なる教育機能を有していた。先行研究では、同時代の教育機関の横のつながり、すなわち藩校・私塾・郷学・寺子屋の間の比較をおこなう視点と、藩校研究や郷学研究など個別教育機関に対象を絞った視点がとられてきた。最近では「地域教育史」(木村政伸)という観点から、ある地域全体の「学び」の構造を総合的に把握しようという研究があらわれている。本論考は、「地域教育史」の観点に学びつつ、その中でも研究の少ない郷校に着目し、その地域における郷校の多様な意義・機能を明らかにしている。

 本稿で対象となるのは河島書堂という郷校は、武蔵国比企郡川島領域(現、埼玉県川島町)に位置していた。この地域の村の人々は、ペリー来航時に海防のために多くの者が動員されており、異国や幕府の動向に非常に敏感であるという特徴があった。また、1866(慶応2)年の武州一揆の際、川島地域の地域指導者層は多大な被害を受けており、その被害者の子がのちに郷校・河島書堂創設の指導者となっている。このような背景から、川島地域の村落指導者層は日常的な地域秩序の安定が重要課題であると認識するようになったとされる。
 1870(明治3)年、前橋藩はそれまでの頭取名主ら村落指導者や手習塾の開設者などを郷学所役員に任命した。ここには政府が進める近代化を前橋藩が地域指導者層を取り込むことによって進めようとしたことがみてとれるが、一方の村落指導者たちは藩からはかなりの独立性を保ち、河島書堂の創設をめざした。事実、1871(明治4)年に前橋県(藩)が消滅すると、郷学所役員たちはあっさり前橋県との関係を打ち切り、自らが主導となって運営の継続をおこなったのであった。
 河島書堂という郷校の機能を知るにあたって、まず重要なのは同地域の他の教育機関との関係であろう。これについては、既にあった手習塾などとは併存関係にあったと思われる。というのも、手習塾は一般子弟に初歩的な手習いなどの教授が目的であったが、河島書堂はある程度の修学を終えた村役人子弟を対象としており、適切に棲み分けを行っていたのである。そのため、手習塾から河島書堂への「移籍」や「進学」というケースも多々見受けられる。
 一方、郷学所役員たちは河島書堂に教育施設という役割だけに留まらず、その他の機能をもたせようとしていた。すなわち会所・施薬院という機能である。会所については、村役人として村民一般を教諭・指導する資質を養うことが求められ、既存の会所と郷校が合併が実現している。施薬院については、窮民恤救がこの地域の村落指導者にとっては地域秩序維持の最重要課題と認識されており、そのような機能を河島書堂に持たせることが提案されている。そして、このことは明治政府の「万民御救恤」を受けた川越藩の施薬院設置などの対応から学んでいると考えられる。ただし、実際に河島書堂が施薬院と併置されたかは史料からは確認出来ない。
 以上のように、河島書堂では郷校としては既存の手習塾と適切な関係を取り結びつつ、他方、郷校だけの機能でなく、会所や施薬院などの機能をあわせもつことによって、かねてからの村落指導者層の目的であった地域秩序の安定を目指したのであった。

関連リンク・文献

医師統制と郷校の役割をあわせもつ施設:下山佳那子「幕末期における郷校の設立」(2011) - f**t note


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