ピーター・バーク「情報の乏しかった時代/情報が溢れ出ている時代」(2012年10月14日、於:東洋大学円了記念ホール)

 ケンブリッジ大学のピーター・バーク氏が東洋大学で講演されるということでしたので、喜んで行ってきました。説明するまでもなく、バーク氏は稀代のルネサンス研究者で、同時にさまざまな歴史学理論に関する著作も執筆している世界で最も有名な歴史家の一人です。

ピーター・バーク「情報の乏しかった時代/情報が溢れ出ている時代」東洋大学円了記念ホール、2012年10月14日。
Peter Burke "Information Scarcity and Information Glut"
http://www.toyo.ac.jp/ihs/event-20121014.html

情報の乏しかった時代/情報が溢れ出ている時代

 今回の特別講演のテーマは「情報・知識の社会史」と言えると思います。当該トピックについては、すでに『知識の社会史――グーテンベルクからディドロまで』(原著2000年、翻訳2004年)や最近出版されたばかりの『知識の社会史――エンサイクロペディア(百科事典)からウィキペディアまで』(2012年)などで詳しく書かれていますが、今回はとりわけ中世に焦点を絞り、情報の多寡をめぐる人々の動向について紹介されました。
 情報・知識についての社会史は、最近ではアン・ブレアのToo Much To Know(2010)などの優れた研究書・概説書があらわれており、僕の専攻する科学史(特に、インテレクチュアル・ヒストリー)という学問分野では昨今特に注目を集めている研究トピックです。本講演はまさにそういった研究を幅広く渉猟し、わかりやすく説明したものでありました。

 現代が情報過多の時代であるとはよく言われたもので、ハーバード・サイモンは豊富な情報によって人々の注意力に欠如が生み出されるとまで述べています。しかしながら、人々が多くの情報を前にして当惑していたのは何も現代特有の事象などではなく、古代にまで同様の現象が見て取れるんだ、というのが本講演の導入です。たとえば、セネカは「書物が豊富なことは物事への関心を散漫にする」と早くも紀元1世紀に述べていますし、16世紀スイスの博物学者、コンラート・ゲスナーは「書物の混乱した忌々しいほどの無数さ」と歎いています。そして、16世紀頃には印刷革命を目の当たりにした人々は印刷物の急増を「洪水」であると形容するほどになりました。このように、わずか5世紀ほどで飛躍的に情報が増加した事態を、バークは「あまりに情報が多すぎる(Too Much Information; TMI)」時代と呼んでいます。

 さて、TMIへの着眼については、上でみたブレアの著作など最近の情報・知識の社会史でも頻繁に取り上げられる研究主題ですが、バークは逆に「あまりに情報が少なすぎる(Too Littele Information; TLI)」時期の社会史についても注意を払っていたのが特徴的でした。すなわち、初期中世において人々は限られた情報しか得ることができず、それに伴って人々の情報・知識に対する姿勢が変わっていったと言うのです。特に西暦800年前後は、ローマ帝国の崩壊、西ヨーロッパとビザンチウムのつながりを絶ったイスラームの興隆に伴い、情報・知識がかなり少なくなった時期であると言えます。
 そして、そのような背景のなか、人々の知識や情報に対する姿勢も変化しています。たとえば、この時期は読み書きの能力がかなり低下した一方で、口承的な文化が中心となりました。また、都市間の結びつきがなくなったため、孤立した田舎の修道院が知識・情報の拠点となりました。そして、それにより「熟読」という読書スタイルが生み出されたのでした。また、そのスタイルを重んじるトマス・アクィナスは、一冊の本を読み終えたと豪語する人物に対し疑念を隠さなかったとも言われています。

 その後の後期中世はまさにTLIとTMIの時期の分水嶺となっていましたが、話題は再び12世紀以降に徐々に伸長していくTMIへと移ります。交易や都市、大学の興隆に伴い、12世紀頃から商業的な手写本の数が増大していったと言われますが、それは写字本の数をみてみると一目瞭然です。例えば、ドイツでの写字本は、11世紀のものは63711点残されていますが、12世紀のものは127066点と倍増し、13世紀は163853点、14世紀は278016点、15世紀は910000点とその数が飛躍的に増加していることがわかります。ここに上でみた16世紀の印刷物「洪水」の時代の前史をみてとることができるでしょう。
 そして、あまりに多くなった情報を前に、それをどうにかやりくりすべく人々は新たな知のスタイルを生み出そうとしたのでした。それが、百科事典、集成、概要・抄録、索引という今日でもおなじみのレファレンスツールです。百科事典としては、12〜13世紀頃のフーゴー『ディダスカリコン』やボーヴェ『大いなる鑑』が挙げられます。集成としては、13世紀のアクィナスによる『神学大全』が最も有名でしょう。要約もまたこの時期に出現しており、アングリクスの『医学要綱』や托鉢修道士たちによるさまざまな神学概要が編まれています。そして、索引としては、13世紀にシトー修道会によってアルファベット順の索引が作成されています。
 以上みてきたように、その時代の情報の多寡に伴い、人々の情報や知識に対する姿勢は変化していったのでした。

歴史学理論の7つのトレンド

 本来であれば、以上で今回の特別講演の内容は終わりだったらしいのですが、前日の準備会ミーティングの際に、歴史学理論の話題となり、バーク氏が非常に明快な説明をおこなったことをきっかけに、その内容も講演で話していただくことになりました。ただ時間としては20分程しかあてられず、そのためそれぞれの概略だけが述べられるに留まりましたが、その内容についても記しておきます。
 第一は「文化交流の歴史」です。1920年代という経済危機の時代にはモノの値段についての歴史が生まれ、1960年代の人口増加の時代には人口の歴史の研究が生まれたように、現代の多文化主義が広がっていく時代には、文化交流の歴史が必要になるということでした。異文化遭遇や受容といったトピックも含みます。文化の伝達については、中心から周縁という一方的な視点でなく、その逆も注目すべきなのは、バサラなどによっても述べられています。
 第二は「物質文化の歴史」です。物質文化については、これまでは経済学が長きにわたってその中心に座していましたが、今後はより文化史的な観点が必要ということでした。消費者中心の社会であると言われる今日においては、消費の歴史をめぐる文化史はさらに重要な位置を占めてくることでしょう。
 第三は「環境の歴史」です。この主題については、一時期は質的研究が進展しましたが、今日では歴史家、社会学者、科学者との協働による量的研究が再び多くなっているそうです。
 第四は「知の歴史」です。インテレクチュアル・ヒストリーと英語のまま呼ばれることがあるこのトピックは、まさしく今回の講演の主題でした。この分野はデカルトニュートンなどの有名な(自然)哲学者などのテクスト分析が中心であると思われがちですが、最近では知の社会史なる研究も盛んです。たとえば、さまざまな研究者集団がそれぞれどのような目的を設定し、どのような分析方法を採用しているかを比較・検討しようという研究や、錬金術超心理学と当時の科学(自然哲学)観を接合させようという研究などがあります。さらに、かつてのシャルチエの先駆的な研究を経て、最近では読書・書物に関する社会史が再び多く提出されています。先にみたブレアの研究もそこに入れることができるでしょう。
 第五は「記憶の歴史」です。これは近現代の口承文化への注目とオーラルヒストリーの進展によって20世紀後半以降に生まれた研究トピックです。ある文化において、受け継がれ記憶されていく情報・知識とは何か、そしてそれを記憶することにどのような機能が与えられているのか、などが検討されます。さらには、われわれの日常とも深く関連しており、たとえば、ある人物の姿が彫られた銅像やその名が冠された道なども記憶の歴史として考察の対象に入ります。
 第六は「身体の歴史」です。とりわけ、感情や五感に関するが最近では最も注目を浴びています。身体史の先駆者でもあるアラン・コルバンらによる「身体の歴史」シリーズ(藤原書店)や、医学史家のバイナムらによるA Cultural History of the Human Body(Berg、2010年〜)というシリーズなども編まれています。
 第七は「グローバル・ヒストリー」です。これについては、もはや説明するまでもないでしょう。

感想

 バーク氏の講演前には長谷川貴彦氏(北海道大学)がバーク氏の紹介と研究史上での位置づけを行い、バーク氏の講演後には下田啓氏(早稲田大学)がコメントを行いました。長谷川氏はバーク『文化史とは何か』を翻訳されるなど、彼の研究に非常に精通しており、氏による紹介は非常にわかりやすかったです。下田氏はハーバード大学東アジア研究所で学位をとられ、主として英語で研究成果を発表しているそうですが、今回のコメントはバーク氏による中世・初期近代の欧州との比較として日本の事例を紹介されていました。その後、フロアからの質問もたくさん受け付けられ、非常に盛り上がった講演会となりました。
 なお、バーク氏の講演は16日(火)には京都の龍谷大学で、20日(土)には青山学院大学で行われるようなので、今回行けなかった人は是非そちらに!詳細は下記ページで確認できます。
http://tagengo-syakai.sakura.ne.jp/xoops/html/modules/news/article.php?storyid=199

 さて、最後に簡単に感想を。講演の主題は、情報が豊かな時代、貧しい時代において、人々がそれぞれの状況の中でどういった知の文化を生み出していったのか、ということだったと思います。そして、情報が豊かな時代(今回の事例では後期中世)では豊富な知の文化(百科事典、索引など)が生み出されたと紹介されましたが、一方では、情報が少ない時代(上では初期中世)の知の文化(熟読という読書スタイル)についてはあまり多く説明されませんでした。ここで気になるのは、情報の多寡が知の文化の豊かさに直接つながるのかどうかという点です。つまり、情報が少ない時代の知の文化はあまり豊かにならないのかどうか、というのが気になりました。もちろん、今回の事例について言えば、中世史の史料の問題があると思うので検討が難しいかもしれませんが、情報の少ない時代というのは何も中世に限る話ではなく、現代でも情報が少ない時代ではありえる(例えば、国家による情報統制など)ので、そういった視点から研究がおこなわれると面白そうだなぁと感じました。(なお、この点について質問させていただいたのですが、あまり文意が伝わってないようで、話が中世の口承文化と現代の口承文化の異同にずれてしまいました・・・。自分の質問の下手さに反省です・・・。)

関連文献・サイト

講演会の実況・参加記など

10/14ピーター・バーク講演会@東洋大学 - Togetter
参加者による講演会実況のまとめです。僕のまとめでは長谷川・下田両氏によるコメントやフロアからの質問は省いてしまいましたが、会場にいらした髭将軍(@higegeschichte)さんがそれらもまとめてくださっているので、あわせてご参照ください。なお、TogetterまとめはSaebou(@Cristoforou)さんに行っていただきました。感謝致します。

http://tsyokmt.exblog.jp/16590790/
今回の講演会のオーガナイザーの一人である岡本充弘先生(東洋大学史学科)によるエントリ。舞台裏などについて書かれています。

http://d.hatena.ne.jp/theta_K/20121015/1350304962
Soichi NAGANO(@theta_K)さんによる参加記。本エントリで取り扱えなかった長谷川報告などを中心にまとめられています。

ピーター・バーク著作

文化史とは何か 増補改訂版

文化史とは何か 増補改訂版

知識の社会史―知と情報はいかにして商品化したか

知識の社会史―知と情報はいかにして商品化したか

A Social History of Knowledge II: From the Encyclopaedia to Wikipedia

A Social History of Knowledge II: From the Encyclopaedia to Wikipedia

その他、講演の関連文献

Too Much to Know: Managing Scholarly Information before the Modern Age

Too Much to Know: Managing Scholarly Information before the Modern Age

上で何度か紹介したブレアによる著作です。古代から初期近代までの情報・知識をめぐる社会史として、非常に網羅的かつ簡明にまとまっており、この分野のレファレンスとして有用であると思います。是非とも翻訳されて欲しいものです。なお、本書については、研究室で輪読し、そのレジュメを
ウェブ上にアップしていますので、あわせてご覧いただければと思います。(全3回)
http://d.hatena.ne.jp/hskomaba/20120628
http://d.hatena.ne.jp/hskomaba/20120713/1342159185
http://d.hatena.ne.jp/hskomaba/20120723/1343004929


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