19世紀における生と死の科学化と世俗化:Laqueur and Cody "Birth and death under the sign of Thomas Malthus"(2010)

 とある授業のアサインメントとして、最近注目の『身体の文化史』シリーズから「生と死」の科学化・世俗化について取り扱った文献を読みました。本論考は医学史ではオーソドックスな「生と死」という主題を扱っていますが、そのことを宗教・文化から科学・政治という変遷を軸に的確かつ簡潔にまとめており、導入として非常に優れた論考であると言えるでしょう。

Thomas Laqueur and Lisa Cody, "Chapter 1 Birth and death under the sign of Thomas Malthus," Michael Sappol and Stephen P. Rice, eds., A Cultural History of the Human Body in the Age of Empire, Oxford & New York: Berg, 2010, pp. 37-59.

A Cultural History of the Human Body in the Age of Empire

A Cultural History of the Human Body in the Age of Empire


 フランス革命後から第一次世界大戦前までの長い19世紀の間には、人々の生および死に対する感覚が大きく変わっていった。すなわち、これまでの宗教的・文化的思考と深く結びついた生と死という概念が、それぞれ独立して科学化・世俗化されていき、政治・経済の問題として取り扱われるようになっていったのである。
 19世紀までの時代は生と死という概念は互いに密接に結びついており、それらは文化や宗教によって規定されていた。つまり、この時代には教会における洗礼と埋葬が生と死を意味していたのであった。そして、それらの儀式の際には地域の産婆が重要な役割を期待されていた。産婆は一般的には教会から資格を与えられており、新生児をこの世に導く手伝いをするという役割だけでなく、死者が永遠の眠りにつくための準備をする役割も担わされていたのである。つまり、生と死は地域社会、家庭、教会の中に閉じ込められていたのである。
 しかし、フランス革命以降、生と死に関する見方が大きく変わっていく。マルサスの『人口論』(1798)で端的に示されたように、人口が資源の配分などの問題と結びつけられ、過剰な人口が国家にとってリスクとなると指摘されたのである。ここにおいて、人口という生と死をめぐる問題に対し国家は関心を払うべきであるという見方が生まれていった。同時に、かつてあった生と死の文化的な結びつきはなくなっていく。たとえば、フランスでは1792年に人口動態統計を教会にではなく各地自体に任せているし、また、産婆の役割が男性産科医に取って代わられたりしている。このように長い19世紀の間には、生と死さらには生殖に関する言説がそれぞれ独立し、科学化・世俗化されていったのであった。
 そこで、生と生殖、および死に関する言説の科学化、世俗化についてそれぞれみてみたい。まず、生については一つの寓話と医療の進展が指摘される。メアリー・シェリーの小説『フランケンシュタイン』(1818)がいみじくも描いたように、生命・生殖は科学によってコントロールされうるものであるという見方がこの時期に生まれ始める。1840年以降に麻酔が登場したこともまた、女性を出産に伴う苦痛から解放する一方で、産褥熱などの産後感染に関するリスクを高めもした。ここからみてとれるのは、出産はこれまでの地域社会的、家族的なおこないではなく、医療の問題へと変容していったということである。
 生に関する見方の変化は、なにも女性や産科医たちの間だけでなく、同時代の知識人、すなわち、科学者、経済学者、政治家などの間でも起こった。たとえば、リンネの時代の分類学者たちは生物を静的な存在であるとみなしたが、ビュッフォンやダーウィン、メンデルらはそれを動的な存在であると捉え、生化学や発生学などあらたな生に関する知識を増加させ、専門化していった。また、経済や政治の場面では、マルサス以降、生や生殖に対する国家的なコミットを増大させていく。すなわち、人口の問題を国家の危機と結びつけ、その危険を取り除こうとしていくのである。たとえば、イギリスにおける新救貧法(1834)はマルサス主義に大きな影響を受けているが、新法制下では夫のいない母や親のいない子どもたちに対する保護がかなりの程度引き下げられることになっている。
 一方、死に関する考えは生に関するそれよりも劇的な変化はなかったが、それでも大きな変化が起きていた。つまり、19世紀には生に関する科学が生まれていったのと同様に、死に関する科学も発展していったのである。その最たる例は疫学であろう。それまで、ある労働者の死や病気は神のふるまいとして説明されていたが、この時期には死や病気の原因として職業や居住地など社会的な要因が指摘されていったのであった。
 また、死に関する大衆の見方の変化は墓地という空間に如実にあらわれている。それまでの墓地は教会という聖なる場所に位置していたが、1804年頃から教会の外にも共同墓地という形で新たなタイプの墓地が確認されはじめる。すなわち、墓地は定まった場所につくられる必要はなく、どこにでもつくることが出来るようになったのだ。かつてのように閉鎖的で聖的な墓地から、現代的、開放的そして俗的なものになった墓地は、その後、ヨーロッパのみならず、その植民地までも広がっていったのであった。

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