享保改革と医薬政策の展開:大石学「日本近世国家の薬草政策」(1992)
今回も修論用のメモとして、公儀による医療政策について扱った文献を読みました。
幕藩制権力は自らの支配を安定・維持させるため、「公儀」としてさまざまな機能を独占していた。裁判権や警察・軍事権はもちろん、河川や街道の設立・修復などが機能の最も明瞭なものであるといえるだろう。一方、今日的にいう社会福祉などもまた公儀としての責務であるとされたが、専攻研究ではこのことを主題として扱ったものはほとんどない。そこで、著者は特に18世紀前半の享保改革期に注目し、幕府による医療政策とりわけ薬草政策の実態を明らかにしている。
本論で注目される薬草政策の主たるものは「薬草見分」と呼ばれる全国的な薬草の調査である。享保元(1716)年に紀州藩主・徳川吉宗が将軍となってから、紀州藩出身の本草学者を登用することで、積極的な薬草政策が進められていく。享保初年からほんの6年の間に次々と登用された本草学者たちは、医薬・物産に関する豊富な知識をもっていた。たとえば、薬草政策に関して要職を担わされた者として丹羽正伯貞機、野呂元丈実夫、阿部友之進照任、植村左平次政勝などが挙げられるが、彼らは小野蘭山たちのような読書人的・儒教的教養主義とは逆の学統、すなわち、平賀源内たちのような実践的・技術者的性格をもつ者たちであった。享保5(1720)年から宝暦3(1753)年の間におこなわれた薬草見分は当初は蝦夷地から長崎まで全国的におこなわれたが、享保16年以降は関東地方に集中された。植村政勝らは自ら見分に赴き、各地の農民らとも積極的に交流をおこない、薬草に関する知識・技術を彼らと交換したのであった。
なお、同じ時期には全国諸藩においても薬草の調査がおこなわれている。享保11年には岩国藩で、元文5(1740)年には尾張藩で薬草見分がおこなわれた。特に尾張藩ではかなり活動的に調査がおこなわれ、幕府が同地に見分に赴いた際にも積極的に協力・連動をおこなっている。
薬草見分以外の薬草政策としては、全国薬園の整備、人参・薬草栽培の奨励・薬種流通政策などがおこなわれている。特に、注目すべきなのは全国的な人参・薬草栽培の奨励である。たとえば、享保14年に日光で試作された朝鮮人参の苗は諸藩や各地の薬園に分け与えている。尾張・紀州・水戸の御三家ではその栽培が活発であったが、その他、仙台藩・岩国藩・弘前藩・松前藩・会津藩・福井藩・加賀藩などでも人参苗が幕府から贈られた記録が残っている。
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