孤児救済に対する公と私の働き:庄司拓也「天保の飢饉下の秋田感恩講による孤児救済」(2000)
修論用メモおよび明日の歴史科学協議会大会(テーマ「伝統社会における貧民救済」)のための勉強もかねて、江戸時代に私的におこなわれた孤児救済について論じた文献を読みました。ちなみに、大会については下記ページ参照。
http://www.maroon.dti.ne.jp/rekikakyo/information.html
庄司拓也「天保の飢饉下の秋田感恩講による孤児救済――近世の災害と民間救済活動」『専修史学』31、2000年、93-108頁。
1832(天保3)年から1839(天保10)年までに発生した天保の飢饉によって、大きな打撃を秋田藩に与えた。すなわち、米価が高騰し、土崎湊町では打ちこわしが勃発したが、秋田藩はこのような事態に対して、土崎湊町や久保田町の全町人に対し払米をおこなうなどして対応した。しかし、それらの対応は限定的なものに留まっていた。というのも、この時期には久保田町の家持町人が没落・衰退し、下層民が増加するという都市の貧困化が進み、久保田・土崎湊両町における窮民子女の数は増加傾向にあった。さらに、救済にかかる費用も天保期飢饉後は跳ね上がっていたことからも、藩はそれほどまでに継続的な対応をおこなうことが出来なかったのである。
そんな中、秋田藩は孤児救済という役割を感恩講という私的な地域団体に任せることで、財政を抑えようとしたと考えられる。感恩講とは1829(文政12)年に御用商人・那波三郎右衛門を中心に設立されたもので、その目的を城下の困窮町人の救済にあるとしていた。同施設は秋田藩から与えられた知行地の年貢収入によって、施設の運営をおこなうという非常に特徴的な運営形態をとっていた。というのも、この時代に同様の救済をおこなった施設・取り組みとしては、江戸の町会所(1792年設立)や米沢藩の「組立貯仕法」(1805年)があったが、それらはあくまでも幕府や藩が中心となっておこなわれたものであったからだ。
実際、地域における孤児救済において感恩講が果たした役割は非常に大きかった。本稿では天保飢饉下における感恩講の活動を記した史料が中心に検討されているが、それによれば、感恩講の活動として、預かり主のいない孤児に対して新たな預かり主を探すといったことなどがおこなわれていた。たとえば感恩講は、飢饉後の疫病によって両親を亡くした姉弟を引き取ってもらおうと、近隣の親戚などとの調停を試みている。結局、この事例では町奉行を通じて、血縁関係のない者に引き取られることになったが、そのさいにも感恩講は姉弟に米とそれぞれ月々300文、600文を与えたのであった。なお、この新たな預かり主に対しては、町奉行から五貫文が支給されている。
もちろん、感恩講だけでなく、秋田藩が町奉行を通じて孤児救済をおこなっていた。しかし、藩による施策はあくまで補助的なものに過ぎなかったと考えられる。たとえば、町奉行が孤児や預かり主に金銭を支給したケースは、上に見た血縁関係がないにもかかわらず預かり主となった者や、養育者に頼らずに自ら家を守っていこうとする孤児など、いわゆる奇特な者に対して一時的に救済がおこなわれるに留まっていた。それに対し感恩講は、必ずしもすべての孤児を救済の対象とはしなかったが、それでもなお、町奉行の対応に比べれば広い範囲を対象に、長期にわたって孤児の救済をおこなっていたのである。
その後、明治期になると感恩講に児童保育園が附置され、児童福祉を中心とした活動を展開し、現在にまで至る。
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