義務づけられ、希求されていく健康な身体:D. Porter "The Healthy Body"(2000)

 とある授業のアサインメントとして、医学史家であり社会学者であるドロシー・ポーターの文献を読みました。今日まで続く「健康」への強い志向について、その変遷が歴史社会学的に描かれています。

Dorothy Porter, "Chapter 14 The Healthy Body," Roger Cooter and John Pickstone eds., Companion to Medicine in the Twentieth Century, London: Routledge, 2000, pp. 201-216.

 本論文は20世紀のアメリカおよびイギリスにおいて、国家や社会、商業、医療と関連して「健康な市民」を作り上げるキャンペーンが進められていく過程を描き出している。
 20世紀という時代は、国家が新たなタイプの医学を採用し、市民に健康であることを義務づけた時代であった。すなわち、これまでの医学のように疾病を対象とするのではなく、健康を対象とする医学が発達し、国家がその医学を活用していくのである。たとえば、20世紀初頭の英国の優生学者たちは、医療によって健康な者と不健康な者を分け隔てなく救うことは「人種的な自殺」であるとして問題化したし、20世紀前半の社会医学者たちは健康な者をつくりあげるための教育の必要性を主張した。このとき、公衆衛生官という新たに台頭した医療専門家によって、無知な市民に対して健康な日常生活を教育するシステムが生み出されている。すなわち、健康であることは権利であると同時に義務なのであって、人々は健康になるために日々の生活を送ることが求められるようになったのである。たとえば、第二次大戦以降、タバコの喫煙は健康に深刻な悪影響をもたらすものであるとしてメディアで宣伝された。このときに生み出された健康文化とは、ある生活習慣をおこなうこと自体は自由民主主義国家においては権利であるとされながらも、それによって不健康になったものは自己責任であり、国家による保障を受けることはできないというものであった。
 このような医療と市民の健康をめぐるキャンペーンは、国家的なレベルだけでなく商業的なレベルでも進められた。とりわけ、20世紀初頭、それら商業主義はヴィクトリア朝の筋肉的なキリスト教信仰を模倣することで、身体文化という新たな価値観が形成されたのであった。たとえば、英国のユージーン・サンドウは、近代オリンピックにおいて見せつけられたアメリカ人アスリートのヘラクレス的な身体に衝撃を受け、英国に同様の身体文化をもたらそうとした。19世紀の終わり頃から進められるこの商業活動は、運動という新たな習慣を根付かせようとしたものであり、それにより筋肉質的な力強さを構築し、病気とは無縁の身体を目指そうとしたのであった。同様の事例はアメリカにおいてもみられ、ベルナール・マクファデンは独自の運動療法を考案し、病気の予防のための筋肉質な身体の構築を目指したのであった。彼は堅強な肉体をもつことは性的に充実した結婚生活をもたらすと考え、そうやって生まれた子どもが国家の未来を築き上げていくと考えていた。
 第二次大戦が終わり1970年代後半になると、このような筋肉質な身体を志向する健康文化は大衆のライフスタイルの中に浸透していく。とくに、ジムやスポーツウェア、食品補助剤などの一大マーケットを築いたことで知られる大事業家ジョー・ウィダーは、戦前からある身体文化を一般の人々に広める役割を担った点で重要である。ウィダーは国際的なスポーツとしてボディ・ビルをつくりあげ、筋肉をつけることで新たなライフスタイルを獲得することができると喧伝した。たとえば、性生活にためらいがちであった男性が筋肉をつけることで、パートナーとより良い性生活をおこなうことができるとし、多くの一般大衆の関心をひいたのである。過度なまでの筋肉質な身体に対するフェティシズムは、かつては国家的・人種的優越を達成するための手段に過ぎなかったが、現在ではそういった容貌を獲得すること自体が目的となってしまった。このとき、人々はその身体を獲得すべく、筋肉増強のための補助食品や時には違法なホルモン剤を買い求め、そのために働くのであった。
 かつてマルクスは、商品へのフェティシズムによって個人と社会が疎外されていくというモデルを提示した。そして、今日、エリート市民たちが商品化された健康な身体に対するフェティシズムは、まさにマルクスのモデルと重なりあうのであった。

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