施薬・薬師信仰という身体と精神を通じた支配:岩下哲典『権力者と江戸のくすり』(1998)

 施薬事業および薬師信仰に着目して、江戸時代の公儀による支配を論じた文献を読みました。平易な文章でありながらも、政治と宗教との関連についてスリリングな洞察を導いており、非常に刺激的な文献でした。修論用メモ。

岩下哲典『権力者と江戸のくすり――人参・葡萄酒・御側の御薬』北樹出版、1998年。

権力者と江戸のくすり―人参・葡萄酒・御側の御薬

権力者と江戸のくすり―人参・葡萄酒・御側の御薬

 江戸時代の公権力は、薬を通じて諸大名および領民の統治をおこなっていた。たとえば、幕府が諸大名の支配を強めるために薬用人参を分け与えるという支配もあれば、そういった公儀が領民に施薬をおこなうことで支配が試みられたのである。しかし著者は、薬がひとびとの身体に作用しただけでなく、精神レベルにも影響を与えていたことに注目する。つまり、薬師信仰によって宗教的な支配がおこなわれていたことを明らかにしようと試みるのである。

 まず最初に、江戸時代の薬事政策と薬師信仰の関係が検討される。享保期、徳川吉宗によって有力な医師・本草学者が取り立てられたり、朝鮮人参の品質管理を対馬藩に課されたりすることで、幕府の積極的な薬事政策が進められた。特に、幕領および全国諸藩につくられた薬園は、全国に将軍・吉宗の「御深仁」を広めることに大きく寄与した。つまり、人参などを領民に与えることを通じて、自らの支配を正当化しようとしたのである。これについてはよく知られるところであるが、著者が強調するのは、このような支配が宗教的な方法を通じても進められたという点である。つまり、徳川家康薬師如来の権化(再誕)であるとする信仰が人びとに広がっていくことにより、精神レベルでの統治がおこなわれたのである。あたかも国の病を治すかのように戦乱の世を治めた家康であったが、家康は実際に医師並に医薬に詳しく、家臣に対して自らの見立てによって施薬をおこなうこともあったとされる。死後、日光東照大権現として日光山林王寺に葬られるが、そのとき、天台僧・天海によって薬師如来の権化としての信仰が生み出され、この薬師如来信仰が民衆へと広がることになったのである。このことと密接に関連して、先にみた全国での薬園創設が進められたのである。実際、多くの薬園には薬師如来を安置する薬師堂が設置されており、人びとはその参拝を通じて、薬師如来つまり家康への信仰を強めていったのであった。
 次に、尾張ケーススタディとして、施薬と薬師信仰との関係が詳述される。日光東照宮が藩祖である家康を祀っていたことからも、尾張藩ではこのような薬師信仰は非常に影響力のあるものとなった。このことは、尾張藩の薬園でつくられた人参が、日光東照宮に献上されていることからも確認できる。そして、薬師への信仰は藩の積極的な施薬という実践を促進した。つまり、薬園でとれた人参をはじめとして、藩は藩士や領民に対して積極的な施薬を実施したのである。尾張藩主側近の職務日記である『御小納日記』(1739-1868年)には、仁恵としての施薬を積極的におこなおうとする藩の姿勢を確認することができる。たとえば、中風などに効があるとされた烏犀円は、主として年老いた藩士を中心に仁恵として下賜されており、老人をねぎらうという儒教道徳の実践としても施薬は捉えられていたと考えられる。烏犀円の施薬は藩士に限られていたが、領民に対しておこなわれた施薬ももちろんあった。たとえば、野犬に噛まれ狂犬病発症の恐れがある者が願い出た場合、手遅れになっては「気之毒」であるとして、どのような者に対しても解毒薬が恩恵的に下賜されている。また、天明8(1788)年に藩内で疫病が流行した際も同様に、領民に施薬がおこなわれている。
 以上のように、江戸時代に全国でおこなわれた施薬事業は、天海によって大衆化がすすめられた薬師信仰と深く関連していたのであった。つまり、仁恵としての施薬によって身体レベルの統治を実現すると同時に、薬師信仰を通じた家康崇拝という精神レベルの統治も暗に進められたのであった。

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