医学知識に対する幕府の理念と村落における受容の実態:横田冬彦「近世村落社会における<知>の問題」(1998)

 近世初期の幕府と地域社会における医療について論じた文献をまとめました。修論用メモとして、以下では著者が公儀による医療をどのように捉えていたかについて中心に記録してあります。

横田冬彦「近世村落社会における<知>の問題」『ヒストリア』159、1998年、1-29頁。

 塚本学や青木歳幸を嚆矢として、地域社会における医療環境についての研究は既に多くの提出されている。それらは主として江戸時代中期の信濃地方を事例として進められたが、本論は近世初期の大坂周辺の在村に注目して、そこでの医療環境の実態を明らかにしている。とりわけ、在村レベルでの活発な医学知識の獲得・流通がおこなわれていた事実が指摘されている。そういった医学知識は、当初、武士階級出身者を中心に享受されたが、次第に村役人層にも広がっていった。この時代の医師は、専門職というよりむしろ多様な知をもつ教養人であったため、そのような庄屋・村役人あるいは寺僧・神主が医師を兼ねることも一般的なことなのであった。
 地域社会の医療環境は学のある村役人などによって構成されていたが、著者はその状況を幕府による医療政策と対比させる。江戸時代中期までに、幕府は既に民衆に対する一定の医療政策を講じていたことはよく知られている。たとえば、徳川吉宗が簡易な薬の処方についてまとめさせ、『普救類方』として刊行したことは、辺鄙小民に至る全ての者を救う仁政の一環としておこなわれた。しかし、実際にそれらを受容しえたのは、上でみたような学をもった村役人層など限られた者たちであった。さらに彼らは、幕府の仁政の体現者というよりむしろ、自らの地位を保持するためにそのような医学知識を積極的に吸収したのであった。つまり、村落上層は他の百姓に比べ、仏道や歌道、医道などの「知」をより詳しく知っているという理由で、村落の階層秩序における自らの位置づけを正当化したのである。ここに幕府の医療政策の理念と、村落社会における受容の実態との乖離があることを、著者は指摘している。

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