近世後期の医療統制と海防問題:張基善「仙台藩における諸医師とその把握・動員」(2007)

 今日もまた修論の主題に関連した論文のまとめです。今回は仙台藩を事例として、藩の医療政策について論じた文献を。

張基善「仙台藩における諸医師とその把握・動員」『歴史』109、2007年、79-108頁。

 仙台藩は領内の医師に対して積極的な管理政策をおこなっていた。領内医師は、藩医・家中医師・浪人医・町医の4つにグループ分けできるが、藩はそれぞれに対して統制をおこなったのである。まず、藩医は宝永6(1709)年に復活した「家業改」によって、25歳になったときに医術のレベルが試されることになっていた。このような統制は、藩医が他の家臣に比べても、藩政において重要な役割を期待されていたことに由来する。たとえば、藩主・藩士たちへの医療提供だけでなく、犯罪発生時に事件関連者への治療やその事件に対する見解が求められるなど、行政的な機能も担っていたのである。実際、このような期待は江戸時代を通じた藩医の増加率の高さにもみてとれ、他家臣に比しても高くなっている。次に、家中医師に対する統制であるが、その医師としての特徴からか、藩からの統制に関して著者は言及していない。というのも、家中医師は、仙台藩の地方知行制のもと、領地を支配していた家臣たちの抱え医であったからである。家中医師は自らの家の者に医療をおこなうが、民衆に対して医療をおこなうこともあり、文久3(1863)年時点の家中医師の数は藩医より圧倒的に多かったことが指摘されている。浪人医師は村方に居住して医療をおこなう医師であるが、早くは17世紀後半から郡方毎に彼らに対する取り締まりがおこなわれた。町医師に対する統制は享保19(1734)年にみられる。そこでは、町医の数が増大していったことで、町医が武士層に対しても医療をおこなうことも多くなったが、藩はそういった町医に対して自らが武士身分でないことを強く戒めている。その後、町医に対する衣服の規定や駕籠の利用禁止がおこなわれたが、これらは身分秩序を維持するためにおこなわれたと考えられる。
 仙台藩に存在する多様な医師と彼らに対する管理・統制は、藩の医療政策の中心的な課題であった。統制の目的の一つして、上の町医の事例でみたような身分制の保持があげられるが、それ以上に重要であったのは、近世後期の海防問題に対する藩の危機意識があげられる。19世紀初頭に仙台藩の沖合に出没する異国船が増えたことなどを背景に、幕末にかけて藩はその軍事態勢を強化しており、それと重なるように医師を把握しようという姿勢を強めていったのである。たとえば、4つのカテゴリの医師に対する個々の統制は既に18世紀初頭よりみてとれるが、領内の全医師を統合的に管理しようとしはじめるのは、まさに19世紀初頭のことであった。文政12(1823)年に藩は、領内の浪人医師・町医・家中医師全員に関する、名前・年齢・住所・専門・師匠の名前などの情報を把握しようと試みている。その後、慶応4(1868)年の戊辰戦争では「会津進発行軍」部隊に医師が編入されており、戦闘のために医師が動員された。医師が軍役の一部であるという意識は既に享保期に確認できるが、そのような考えは近世後期の軍事問題と重なって、領内医師の統制という試みを促進したのであった。