健康をめぐる病理学と医療経済学:鈴木晃仁「健康調査の歴史」(2009)

 近代日本における公権力と医療を主題にした論文を読みました。修論用メモです。

鈴木晃仁「健康調査の歴史」近現代資料刊行会(編)『近代都市環境研究資料叢書 2 近代都市の衛生環境(東京編) 別冊(解説編)』近現代資料刊行会、2009年、71-99頁。

近代都市の衛生環境 東京編 別冊(解説編) (近代都市環境研究資料叢書)

近代都市の衛生環境 東京編 別冊(解説編) (近代都市環境研究資料叢書)

 かつてフーコーが示したように、西欧社会における医療をめぐる権力は18世紀を境に変貌した。この時期、4世紀以上にわたって多数の人びとの生命を奪ってきたペストが消え、そういった疾病に基づいてつくられていた「病気をめぐる権力」が衰退していったのである。代わりにあらわれたのが、病気という状態にではなく、健康であるという状態に対する国家の介入であった。このとき医療は、疾病の治療だけでなく、ライフスタイル全般を対象とするようになり、「健康をめぐる権力」が作動し始めるようになるのだ。
 本論文はそのようなフーコーパースペクティブを引き継ぎつつ、近代日本における「健康をめぐる権力」について検討している。明治新政府は長与専斎らを中心に、明治初期に猛威をふるったコレラに対してさまざまな「衛生」政策を講じた。ここで生み出された医療をめぐる権力は、フーコーが着目したペスト時代のそれになぞらえることができる。しかし、大正期・昭和前期になると「健康をめぐる権力」が形成されていく。本論文は、まさにこの新たな権力について、いくつかの契機となる出来事を紹介しながら、その概観を示そうとするものである。
 ポストコレラの時代において、新たなタイプの権力の誕生を象徴するのが、大正5(1916)年に内務省に設立された保健衛生調査会である。このとき、「国民の健康」は行政の対象となり、その「健康」を脅かす原因を調査するという機運が高まったのである。全国的に調査をおこなうに際しては、調査者が統一的な判断基準をもつことが必要となるが、このとき、これまで調査項目に含まれなかった生理的な現象が含まれるようになっている。たとえば、ある寄生虫保有の有無といった医学的な項目だけでなく、月経や睡眠、疲労などの生理に関する項目が含まれていた。すなわちこの時期に、これまで客観的な基準が提示されていなかったそのような身体的な状態の病理化・医学化が進められたのである。こうして、疲労などの生理現象は医学を介して健康と結びつけられるようになったのである。
 健康調査においては、生活習慣や身体に関する様々なデータが収集され、「健康」という概念の再構成が試みられたが、その調査対象となったのは国民の身体だけではなかった。すなわち、患者が受容する医療およびその担い手である医療者に関する調査も同時に進められたのである。その背景には、大正11(1922)年に健康保険法が制定されたことにより、農村のひとびとなどの医療の受療状況に対する関心の高まりがあった。つまり、自由開業制度によって都市部に多く、農村部に少なくなっている医師の状況は、昭和初期には「農村恐慌」と関連して問題化され、農村の人びとの健康が脅かされていることが指摘されたのであった。その後、医療自体に関する調査はさらに発展し、医療の社会経済的な問題に着目する健康調査があらわれる。たとえば、昭和13(1938)年の滝野川健康調査は、明らかに同時代にアメリカの医療費用委員会の調査に範をとり、健康の問題を医療に関する社会科学的・経済的な観点から調査したものである。そこでは、ひとびとの健康に対する消費活動を把握することを通じ、限定された医療資源をいかに適切に配分するかという問題の解決が目指されていたのであった。