近代における民間恤救施設の再規定:庄司拓也「明治前期における地域的救済組織の存続過程」(2002)

 近世期に設立された民間の救済団体が、明治期になってどのように自らを規定し直していくかについて論じた文献を読みました。そこには、明治新政府の思惑との対立だけでなく、団体内部のメンバーとの衝突があったのです。素晴らしい着眼であり、紹介されている事例もとても面白いです。修論用メモ。

庄司拓也「明治前期における地域的救済組織の存続過程――感恩講の法人化をめぐって」『専修史学』33、2002年、67-84頁。

 近世から既にあった地域レベルでの相互扶助団体に対し、明治新政府が抑圧的な態度を示したことはよく知られている。つまり、政府はそれらを解散させることで、明治国家による新たな扶助システムを形成しようとしたのである。このようなトピックについて、先行研究は公と私の対立が強調することが多いが、本論文はそのような単純な図式ではなく、そこで徐々に変化する私的施設に対する国およびその構成員の態度を描いている。そのケーススタディとして、文政12(1829)年に豪商・那波三郎右衛門を中心に設立・運営された感恩講が注目される。秋田城下につくられたこの組織は、困窮する町人の救済を目的とする民間の恤救施設なのであった。
 明治4年、感恩講の財政基盤となっていた知行地が没収されたことにより、感恩講の存続が大いに脅かされることになった。そんな中、政府は明治7年に感恩講に対する保護を提案したが、それを授産施設として再編することが条件として提示された。そこでは、感恩講がおこなってきた窮民への米の無償提供は「姑息」であるとして、民間の慈善団体の役割が否定されたのである。感恩講は保護を受けるために授産施設として植物園の設立をはかるも、結局達成することができず、国からの資金援助を得ることはできなかった。しかし、授産施設の設立を通じて殖産政策をはかろうとする明治新政府のもくろみもまた頓挫し、一転して、国は地方の救済組織を保護しようという方針に転換した。感恩講の年番(惣代)である那波三郎右衛門は、天皇の側近にうまく近づき、明治14年にこれまでの活動に対して天皇から褒賞を受けることになった。その後、政府は感恩講の廃止を撤回し、その活用を進めていったのである。
 政府・天皇に対する働きかけによって、存続の危機から脱した感恩講であったが、今度は内部対立という問題が生じた。そのきっかけは、明治19年に秋田で起きた大火によって、被害に遭った一部の感恩講の講員が困窮することになったためであった。このとき、講員はこれまでの資金積み立てを理由に、感恩講に借金を求めた。それに対し年番の那波は、感恩講の設立理念は貧窮人を助けるためであって、より困窮の度合いが低い講員を助けることは、その理念に反するとして貸し付けを拒否したのである。翌年、年番と講員の対立は裁判へと発展することになるが、そこでは感恩講の資金の所有権が争点になった。講員側は、感恩講は講員たちの私財によってつくられた民間団体として、その資金に対する自らの権利を訴えた。一方の年番側は、感恩講の講員はあくまで事務役に過ぎず、その資金は講員のものではなく秋田県に帰するとして、自らを公設の法人であるとした。裁判の結果、講員の訴えは退けられることになったが、年番側の感恩講に対する見方が全て正しいと判断されたわけではなかった。つまり、感恩講は法人格ではありながらも、あくまで民間団体であり、公設であるという見方が退けられたのである。その後、同様の裁判が何度か繰り返されたが、その判断が変わることはなかった。
 このような感恩講内部の動揺もあって、その後、法人格として司法的により厳密な感恩講の規定がつくられることになった。日本近代法の父とも呼ばれる法学者のボアソナード校閲および秋田県の認可を経て、明治25年には成文規則「感恩講慣例」が定められた。ここでは裁判のときに争点となった、感恩講の資産に対する講員の所有権が明確に否定されている。その後、明治31年民法施行に伴い、感恩講は正式に財団法人として登記されることになった。

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