西洋医学受容をめぐる宣教師と地方政府の役割:秦惟人「近代寧波における医療伝道について」(2005)

 前回のエントリ(コチラ)では、科学史(医学史)とグローバル・ヒストリーとの関係を論じるにあたって、「コンタクト・ゾーン」への着眼が重要であると指摘されていることを学びました。そして、まさにその「コンタクト・ゾーン」の一つである中国の開港都市・寧波(ネイハ)について調べていたら、たまたま同地での宣教医療について論じた文献をみつけたのでまとめました。主に事実ベースのまとめです。

秦惟人「近代寧波における医療伝道について――寧波仁沢医院初探」『筑紫女学園大学紀要』17、2005年、155–170頁。
http://ci.nii.ac.jp/naid/110001102324
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 近代中国における医療伝道や宣教医療は西洋医学に基づく衛生制度の構築へとつながったとされてきた。中国におけるそのような「衛生の制度化」は、先行研究では「身体の植民地化」(アーノルド)や「民族の防衛」(ロカスキー)などと表現されている。本論考はそのような枠組みを踏まえながら、中国の一開港場都市・寧波における医療伝道に着目することで、そこでの西洋近代医学の受容の実態を明らかにしている。なお、本論文が着目する史料は、東洋文庫のモリソン・パンフレット・コレクションにあるイギリス聖公会関連の年次報告である。この報告はイギリス聖公会宣教協会(Church Missionary Society, CMS)の医療伝道会(Medical Mission)による記録をまとめたもので、1904年から1914年の報告までが残っている(ただし、1905年と1911年は欠)。とくに、寧波における医療伝道については、1900年分のみ残されており、この年次報告が主として検討されている。
 南京条約(1842年)によって5港が開港された2年後、CMSはこれら5港に宣教師を派遣した。その一つである寧波には、1877年にカレッジが、1886年には伝道病院である仁沢医院がCMSによって設立された。ただし、既に1843年には同地にアメリカのバプテスト教会が医療伝道をおこなっており、また、1870年代にはCMSは既に同地で医療伝道をおこなっていたようである。当初のスタッフは医院の設立者・デイリー医師のみであったが、のちに広済西医学堂(杭州)を卒業したウォン医師、および、イギリスからブロウニング医師が加わった。1886年の開院時の入院患者数は48人、外来患者数は2035人だったが、その後数年で外来患者数は6000人を超えている。その後患者数の伸びは停滞するも、1908年を境に再び外来患者数が増加し、10000人を超えるようになった。1912年に中華民国となってからは、患者数はさらに増え、1914年には入院患者数821人、外来患者数15344人となっている。患者の疾患は消化器系や呼吸器系などが中心であったが、とりわけ眼や耳の疾患の患者が特に多かった。眼科などは中国の伝統医療が不得手な分野であったため、これに関する治療は比較的受け入れられていたようである。また、外科手術も多く行われており、寧波初の紡績工場で1904年に事故が起きたとき、犠牲者は切断手術によって一命をとりとめることができたと記録されている。
 このようにおこなわれた伝道医療であったが、伝道医師と地域社会との間には長きにわたって不信状態が続いていた。たとえば、仁沢医院に来る患者は中国伝統医療にいくつかかかった後にくる場合が多く、しばしば手遅れになっていると記されている。また、中国医による灸は苦痛を与えるものであるという非難が残されている。一方、村で定期市がおこなわれるときに実施された巡回診療の際には、外国人はひとさらいであるとの風評がたち、さらわれて薬の材料として肝臓と眼をとられると信じられていたと記されている。しかしながら、1906年に地方政府が仁沢医院での活動を明確に認知したことをきっかけに、このような状況は一変する。1906年、浙江提督(武官の最高位)と上海道台(地方役人)が仁沢医院を訪問し、同年に設置されていたレントゲン器具に対し、200元を送ることを約束した。さらに1908年には医院が兵士の治療をおこなったことに対し、浙江提督が謝意を表しており、これを契機に地域住民からの寄付も増えていった。このように、寧波における西洋医学受容は伝道医療の熱心な活動によっておこなわれたというよりも、むしろ、地方政府がそういった活動を認知することをきっかけに進展していった。ただし、他の地域における伝道病院の多くはつぶれてしまったものが多く、それに比すると寧波の伝道病院は成功した部類に入ると考えられる。

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