要旨:藤本大士「秋田藩領および幕領の鉱山における医療環境」〔修士論文〕(2013)

 明日は修論の口頭試問がおこなわれます。口頭試問は学内の方だけでなく、全ての方が参加できると思いますので、もしよろしければご参加ください。とくに、来年以降に修論を出す方は、うちの研究室での口頭試問の雰囲気などを知ることができるので参考になると思います(僕も昨年行って、口頭試問なるものの雰囲気を知れたことは大きかったです)。
 僕の口頭試問の時間は10時40分から11時30分で、場所は東大駒場キャンパス14号館308教室です。参考までに、以下に提出した要旨を掲載しておきます。

タイトル

秋田藩領および幕領の鉱山における医療環境――近世後期の公儀による医療政策の展開」

要旨

 江戸時代の公儀(幕府や藩)による医療政策を主題とする歴史研究は、これまで幕政・藩政史研究および医療の社会史研究によって進められてきた。幕政・藩政史研究においては、医療が政治の一環として位置づけられていく様子が描かれてきた。たとえば、南和男は享保7(1722)年に設立された小石川養生所は都市下層民対策が目的であったと捉えたし、大石学は徳川吉宗による施薬事業が支配を正当化するための一手段であったと指摘した。しかし、そこでは公儀による「御救」という理念ばかりが検討され、そういった施策が実際のひとびとの医療環境にどのような影響を与えたかについてはほとんど議論されていない。一方、1980年代以降に台頭した医療の社会史研究では、そのような公儀による医療政策が地域レベルでほとんど実効性をもたなかったことが指摘された。たとえば、横田冬彦は吉宗の施薬事業がおこなわれた時期の在村に着目し、そこでの医療環境が公儀による医療政策ではなく、民衆の自発的な取り組みによって構築されたことを明らかにした。その後の医療の社会史研究では、地域社会における医療環境の実態解明が進められた。一方で、公儀の医療政策が検討されることは少なくなっており、江戸時代の公儀による医療政策は限定的であったという評価がなされている。
 しかしながら、本論文が注目する近世後期の秋田藩では、藩による医療政策が領民の医療環境に少なからぬ影響を与えていたことが確認できる。とくに、藩は領内鉱山の医療環境を整備していこうとする姿勢を強く打ち出しており、同時代の幕府や他の藩に比べてかなり積極的な医療政策をおこなっていた。その政策の考察を通じて、本論文は先行研究で前提とされた公儀による医療政策の限定性という見方の再検討を試みた。また、政治史研究において公儀による医療政策の理念ばかりが検討されていたことを踏まえ、本論文は医療政策が官僚たちによって実際に進められていく過程を描き出すことを試みた。
 本論文はまた、秋田藩領だけでなく幕領内鉱山における医療環境を検討することにより、秋田藩と幕府の間には医療政策に対する積極性に大きな差があったことを指摘した。このような違いを説明するために、幕府および藩がどのような論理で医療政策を進め、それらが具体的にどのようにひとびとによって進められたかを検討した。これによって、領民の命を保護することは公儀の責務であるとする「仁政としての御救」という思想と、その思想を領内に浸透させ、実際に「御救」をおこなった「改革派官僚」の存在が秋田藩の医療政策を特徴づけていたことがわかった。
 本論文の構成は以下の通りである。第1章では、近世日本における公儀による医療政策一般について検討し、この時代の公儀は医療に対して多様な見方をもっていたことを指摘した。たとえば、あるときは医療政策が都市下層民対策や産業政策、軍事問題、家禄問題などと関連して捉えられ、またあるときは「仁政としての御救」であると捉えられていた。後者のような考えは、民衆の医療環境の積極的な整備につながった。たとえば、そのことは享保期(1716–1736年)の徳川吉宗による医療政策、あるいは、17世紀後半の会津藩水戸藩の医療政策に確認できる。しかし、寛政期(1789–1801年)になると幕府は「仁政としての御救」の一環として医療政策をおこなうというより、都市下層民を懐柔する手段として医療政策を進めるようになった。そのため、幕府による民衆のための医療政策は消極化していった。一方、この時期には少なからぬ藩が医療政策を「仁政としての御救」の一環として捉え、民衆の医療環境の整備を推し進めた。
 第2章では、第1章でみた公儀による医療政策のケーススタディとして、寛政期から天保期まで(1789–1844年)の秋田藩における医療政策を検討した。秋田藩は寛政末期より医療政策を「仁政としての御救」の一環として捉えるようになり、積極的に民衆の医療環境の整備を進めた。その背景には、天明の大飢饉(1781–1789年頃)による藩政の混乱および領民の窮乏化に対して、藩が改革の必要性を感じるようになったことがあった。藩は藩校を通じて、仁政イデオロギーを備えた改革派官僚たちを養成し、彼らに藩政の要職を与えた。一方、郡奉行を通じて、改革派官僚たちはその思想を領内に浸透させ、地方の統制を強めようとしていった。その結果、秋田藩では地域レベルにおいても、「仁政としての御救」が実践されるようになったのである。
 第3章では、秋田藩領内鉱山において医療環境が整備されていく過程を検討することで、それが前章でみた秋田藩の医療政策と連続的に進められたことを指摘した。民衆の医療環境を改善することが「仁政としての御救」であるとする考えは文化期(1804–1818年)より領内に広まっていったが、文政期(1818–1830年)にはこの考えに基づいて鉱山における医療環境もまた整備された。大葛金山では領民が労働者への「御救」を訴えたことを契機に、領主は改革派官僚を通じて鉱山労働者の医療環境を整備していった。たとえば、藩は鉱山病を患った労働者への施療だけでなく、鉱山病の原因・治療法の調査も進めている。さらに、天保期(1830–1844年)の院内銀山においては改革派官僚を通じて、町医・門屋養安が藩から取り立てられることになった。江戸時代の公儀による医療政策が短期的・一回的な対応であったことに鑑みると、藩が鉱山の医師に扶持を与え、鉱山労働者・鉱山経営者に対して継続的に医療を提供したことは、医学史上においても非常に画期的な事例であったと考えられる。
 第4章では、医療政策に対する秋田藩と幕府との積極性の違いを明らかにするために、幕府領内の鉱山における医療環境を検討した。佐渡・生野・石見などの主要な幕領内鉱山では、幕府および代官所は鉱山労働者に対して飯米・味噌を支給し、一定程度の労働者保護対策を講じていたが、秋田藩のように鉱山労働者の医療環境を整備することはなかった。幕府直轄の鉱山における医療環境が整備されはじめるのは、秋田藩から数十年遅れた幕末期からであった。
 以上のように、本論文は公儀がいかに医療を捉えていたかに注目することで、公儀による医療政策を特徴づけた。秋田藩の積極的な医療政策は「仁政としての御救」という思想を備えた改革派官僚によって推し進められた。また、そういった政策は領主の主導のみによって進められたわけではなく、あるときは領民側からの訴えを領主がくみ取ることによって進められたのであった。

参考文献

被言及

藤本大士 『秋田藩領および幕領の鉱山における医療環境: 近世後期の公儀による医療政策の展開』

あの有名ブログ「石版!」にてご紹介いただきました!ありがとうございます!ご指摘を踏まえ、投稿に向けて頑張っていきたいと思います。[2013/3/8追記]