調査地被害と「日本(人)」の再定義:坂野徹『フィールドワークの戦後史』(2011)#2

 坂野先生による『フィールドワークの戦後史』の後半です。今回は第2章・第3章・終章をまとめます。前半のまとめはコチラ

坂野徹「第2章 能登調査と「調査地被害」」、「第3章 奄美調査と「本土」復帰」、「終章 九学会連合のその後」『フィールドワークの戦後史――宮本常一と九学会連合』吉川弘文館、2011年、61–172頁。

フィールドワークの戦後史―宮本常一と九学会連合

フィールドワークの戦後史―宮本常一と九学会連合

 第1章では、対馬調査を事例として、調査者と被調査者との間の関係性、および、日本人・日本文化の再定義という二つの主題が抽出されていた。続く第2章では能登調査を事例として主に前者の主題について、第3章では奄美調査を事例として後者の主題について検討されている。
 
 第二回の九学会連合の調査地に選定されたのは能登半島であった。1952年から2年間にわたっておこなわれた能登調査であったが、そこが選ばれた理由としては、前回の対馬調査が「島」であったため「半島」に関する調査の機運が高まったこと、および、能登半島が西日本・東日本の文化の交錯点であり、古い近畿の文化と新しい関東の文化の交錯点であることなどがあった。調査者たちは先の対馬調査と同様に、能登半島という「辺境の地方」に「古い文化」を見出そうとした。一方、地元のひとびとはそのような調査団に対して協力的な姿勢をみせながらも、彼らに期待したものは「古い文化」の発見であるというより、今後の能登をどうしていくかの指針を与えてもらうことであった。対馬調査では対馬が日本であることの発見という目標が調査者・被調査者ともに共有されていたが、能登調査では両者の間に大きな考えのズレがあったのである。
 そのため、能登調査では被調査者に対する「迷惑」や被調査者からの不満が顕在化することになった。もちろん、対馬調査で長崎医大班の参加がおこなわれたように、能登調査でも調査者と被調査者の協働によって調査が進められていた。実際に、このときの調査では在野の研究者や高校教師に対しても研究協力が仰がれている。しかしながら、一方で在野の研究者たちは調査者側の連携不足や無駄な行動に対し苛立ちを隠さなかったし、また、能登で収集された古文書が長い間常民文化研究所に残され、地元は中央の研究者に対する不信感を強めていた。とくに後者は、1949年に古文書収集事業を目的として常民研に設置された月島分室と関連して進められたものであったが、史料整理が追いつかなくなり、能登の古文書をはじめ多くの史料が常民研に所蔵されたままとなる問題が発生していた。それに対する地元からの問い合わせが続いたこともあり、1967年から古文書の返却事業が開始されることになった。宮本常一は自らも関わってしまった、このような被調査者に対する「迷惑」を踏まえ、のちに「調査地被害」への関心を喚起することになる。
 奄美での第三回調査は1955年から3年間おこなわれたが、このときの調査は対馬の時と類似した問題をはらんでいた。奄美は1946年に米国統治下におかれ、1953年に日本復帰を果たしていたということもあり、地元の人々は奄美が「日本」であることを示すことに強い関心を示していた。しかしながら、このときの調査では、九学会連合の調査団と在野の研究者との協力関係がほとんどおこなわれることがなかった。その理由の一つとして、これまでの調査でそういった協力関係の構築を強調してきた渋沢が本調査にはほとんど関与しておらず、そのため中央による研究調査という色合いが強まったからであると考えられる。奄美アメリカ軍支配下にある琉球よりも本土に近い存在であることを明らかにすることは奄美の人々にとって喫緊の課題であったが、九学会連合の調査では奄美民族学的に本土よりも南方的要素に近いことが明らかにされ、現地のひとびとは憂慮を感じることもあったという。
 そのため、自らと思惑が一致しない中央の研究者とは全く独立に、奄美の研究者らが協働して奄美をよりよく知ることを目標に掲げたプロジェクトが進められていくことになった。その象徴が、1956年に文英吉や島尾敏雄らによってつくられた「奄美史談会」である。彼らは九学会連合など中央の研究者が自らの関心に照らして調査をおこなうことを痛烈に批判し、奄美のひとが自ら奄美の文化をみつめなおし、奄美の将来について考えていくことの必要性を主張した。「奄美学」とも呼ばれることになるこの取り組みは、伊波普猷の「沖縄学」に共鳴し、被調査者による自らのための学として提唱されたのである。
 本書が検討してきた三つの事例は九学会連合の歴史のなかでは「上り坂の時代」にあたるが、その後、1963年に渋沢が死去したことにより九学会連合は勢いを失い、1990年に解散することになる。解散の要因としては、戦後すぐの海外調査が満足にできなかった時代背景のもと、九学会連合が他の学会の調査の一時的な受け皿となっていたに過ぎなかったこと、あるいは、学会自体の個別専門化が進んでいったことなどがあげられる。このように、植民地・占領地を失った戦後日本という時代的な背景のもと、九学会連合の共同調査は「辺境」地域の調査を通じた「日本人」・「日本文化」の再定義の試みとして進められたのであった。

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