来世での救いとキリスト教:五野井隆史「十六世紀、日本人とキリスト教の出会い」(2011)

 16世紀の人びとの「救い」に対する強い関心を手がかりに、初期キリシタン時代の宣教師と日本人の出会いについて論じた文献を読みました。

五野井隆史「十六世紀、日本人とキリスト教の出会い――日本人が救いを求めていた時代」『サピエンチア : 英知大学論叢』45、2011年、1–27頁。
http://ci.nii.ac.jp/naid/110008114814
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 フランシスコ・ザビエルが日本にやって来たとき、日本は時代の転換期にあり、人びとは「救い」を強く希求していた。2年3ヶ月におよぶ日本滞在の末、ザビエルがまとめあげた報告には当時の日本人の宗教観が記されている。その特徴のひとつとしてあげられたのが、地獄に落ちた祖先が救われるかどうか、ということに強い関心をもっているということであった。実際にそう問われたザビエルが、地獄に落ちた者には救いがないことを説くと、日本人はその祖先たちをひどく哀れ悲しんだという。そのことを通じ、ザビエルはこの地への布教のためには哲学者と弁証法に通じた人材が必要であることを痛感し、「学問」をもってそのような問いに答えようとしたのであった。
 そのような「救い」に対する関心は、この時代の日本人に共通してみられることであった。たとえばフロイスの日記(1567年6月12日付)には、ある浄土宗の僧が救霊を追い求めながらも同宗ではそれがかなわず、その後いくつかの宗教に帰依しながらも、最終的にキリスト教の洗礼を受けたという記事が記されている。また15〜16世紀には、一般庶民もまた救いに対する関心を高めており、来世での救済を説く弥勒信仰や地獄信仰などが支持されるようになった。なお、来世での救済を説いたのは、既成宗教に属さない非体制的な宗教集団であることがほとんであった。このように、中世では薬師信仰が現世利益の期待を説き、支持を集めていたのに対し、16世紀になると人びとの宗教への期待は大きく変化していったのであった。
 来世での救いを求める者はキリスト教へも接近した。初期キリシタン時代の改宗者は、そのほとんどが農漁民・病者・貧者・都市下層民であった(ただし、山口では例外的に武士・医師・元仏僧など有識者の改宗もみられる)。豊後府内で活動していたシルヴァ神父が記したところでは、眼病を患った者がキリスト教に改宗して回復したと評判になり、各地からハンセン病者や盲人、悪魔憑きの者など多くの病人が集まり、1555年の1年間で300人以上が改宗したという。フロイスはそのよう事態が、愛と慈しみをもって彼らを世話し、扶助した結果であると述べながらも、その他日本人には貧者・病者に対する偏見から、そういった行為が恥辱・不名誉なものとして捉えられていたと記している。そのような偏見は貧者・病者自らも内面化していたと思われ、改宗者たちは厳しい苦行(ジシピリナ)を受けることによって、滅罪を試みようとしていたという。また、豊後府内では育児院(1555年)・病院(1557年)・慈悲院(1559年)などが設立され、救貧や医療を通じた伝道がなされた。しかしながら、現世で慈悲がかけられながらも、当時の日本人はあくまで来世での救いを願っていたのであった。