善政としての「撫育」と中国儒教思想:有富純也「律令国家の〈福祉〉政策」(2008)

 修論では江戸時代の公的な医療・福祉政策について検討したのですが、古代・中世のその政策についてはほとんど触れることが出来ませんでした。ということで勉強のため、律令国家の福祉政策を概観した研究を読みました。修論用メモ(既に提出したのですが、一応)。

有富純也「律令国家の〈福祉〉政策」『歴史と地理』615、2008年、1–13頁。

 古代日本の史料には「福祉」という語の入った史料は確認出来ないが、もちろんそのことは当時福祉がまったくおこなわれていなかったことを意味しない。今日で言う福祉政策は「(百姓)撫育」と呼ばれており、天皇による国家的サービスとしておこなわれていたのである。その内容は、税の免除や賑給(身寄りのない人への稲穀支給など)、恩赦や仏教行事・神祇祭祀などであった。たとえば、『続日本紀』の739(天平9)年の詔には、疫病や旱害に伴い、賑給として高齢で身寄りのない者1616人に対して稲穀654斛4斗(約100トン!)が与えられている。本論文は、律令国家における「撫育」に着目し、それがおこなわれた論理と開始された背景を概観したものである。
 為政者が「撫育」をおこなう論理には、当時の中国儒教思想からの強い影響があった。中国の天命思想という考えでは、天子は天帝から地上の支配を委任されており、天子が良い政治をおこなえば天帝により吉兆が地上へもたらされ、悪い政治をおこなえば災異がもたらされるとされた。日本の天皇もこれに倣ったと考えられ、先の『続日本紀』でも災害の原因は自らの不徳であると述べられている。すなわち、その不徳を反省し、「撫育」という善政をおこなうことで天帝に認めてもらおうとしたのである。実際、739(天平9)年の疫病・旱害は100万〜150万とも言われる犠牲者を出したが、それらは自らに責があり、今後は「蒼生(=百姓)の為に遍く景福を求めむ」としている。具体的には、神社の清掃や大般若経の写経などの宗教的行事が進められ、そのハイライトが国分寺国分尼寺の建立および東大寺大仏の造営であった。
 実際に撫育政策がいつ頃から開始されたかを知ることは難しいが、撫育という思想について言えば、その一端をすでに『日本書紀』のなかに認めることができる。たとえば、608(推古16)年の条では、ひとびとに対し分け隔てなく「愛育の情」をもっていることが記されている。そして、この思想の背景にはそれ以前の倭隋の交流があったと考えられる。すなわち、隋の皇帝が倭の使者を無礼な者と表現したことを受け、倭の政治情勢にも「撫育思想」が取り入れられるべきだと考えられるようになったと思われる。そのため、推古朝(592–628年)には撫育思想や礼節を含めた儒教思想が導入され、同時に、国家的仏教政策が開始されたのであった。しかし、実際に撫育が政策として進められるのは7世紀半ば以降であると推定される。この時期は律令国家の人民支配・官僚制度がまさに形成されていく時期であったが、それと共振するかのように撫育政策が行われるようなったのである。

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