華僑救済のための西洋医学と中国医学の共存:帆刈浩之「十九世紀末における香港華東医院の「近代化」への対応」(2003)

帆刈浩之「十九世紀末における香港華東医院の「近代化」への対応」孫文研究会(編)『辛亥革命の多元構造』汲古書院、2003年、218–236頁。


 1894年にペストが流行したとき、西洋医学的な観点から、香港の慈善組織・東華医院における不十分な衛生制度が暴露された。香港総督は早速調査委員会を設置し、それの改良に向けた議論をおこなった。ある者は西洋医学中心主義的な立場をとり、その医院の不適切さを指弾し、またある者は中華民族主義に立ち、その医院での中医学の維持を主張した。結局調査会は、全てを近代西洋医学に取って代えるのではなく、それを徐々に導入すことによって医院を改良し、存続させるという折衷的な結論をくだした。しかしながら、医院を存続させることのねらいは立場によって異なっていたため、西洋医学をいかに導入するかに際してもまた議論が起こった。植民地統治の観点からは、西洋医学によって香港の衛生環境を維持するために、医院の存続は必須であった。一方、華人エリートにとっては、その組織が慈善団体としてオーストラリアやカリフォルニアの海外華僑たちの救済を目的とすること、また、華人から多くの寄付金を得ていることからも、医院を廃院することだけは避けなくてはならなかった。しかし、存続するために西洋医学の導入を進めてしまうと、華人とのネットワークが断絶されてしまうという懸念もみられた。結局、西洋医学教育を受けた中国人医師が駐在医となること、また、その医師が患者を西洋医学によって診察する権限を付与しないことなどが医院の改善条件として提示されることになった。その結果、1896年には西洋医学を学んだ中国人医師・鐘本初が駐在医に就任することになった。
 しかしながら、このことは香港の医療が近代西洋化の第一歩を踏み出したことを意味するわけではない。むしろ、東華医院では西洋医学中医学は共存していたのである。たとえば、1906年時点の入院患者2687人のうち1422人が西洋医学の治療を受け、それ以外が中国医学の治療を受けるなど、両者の併存が確認できる。また、症状が軽微な外来患者の場合は、65588人のうち実に63640人(97%)が中医学の治療を受けており、西洋医学によって中医学が駆逐されたわけではないこともわかる。このような共存は同時代の中国とは対照的である。というのも、中医学会は民族主義を喚起しながら、自らを「近代化」することによって近代西洋医学に対抗しようとしていたからである。一方、香港における中医学は「近代化」あるいは「標準化」するということをしなかった。また、華僑救済という目的をスムーズにおこなうためにも、政治的問題や民族主義への介入にも消極的であった。すなわち、香港では中医学はあくまで西洋医学とは別個の医学たらんとしていたのである。実際、1907年に東華医院の関連医院として広華医院の設立が計画されたとき、東華医院の調査委員メンバーでもあった何啓が「中外の良医・妙薬を合わせ、君の佛手に頼り、二十世紀世界の沈痾(ながわずらい)を拯(すく)う」とし、両者の併存をうたっている。