城下町における救済の形態:エーラス「身分社会の貧民救済」(2010)

 近世日本史における貧民救済に関する研究は吉田伸之氏や北原糸子氏のものが有名ですが、このトピックは日本の研究者のみならず海外の研究者をも惹きつけているようです。今日は、マーレン・エーラス氏が日本の研究書に寄稿された論文をまとめました。ちなみに、エーラス氏は学位論文「近世日本における貧民救済と地域秩序の交渉(Poor Relief and the Negotiation of Local Order in Early Modern Japan)」(プリンストン大学)で2011年に博士号を取得されています。
 

マーレン・エーラス「身分社会の貧民救済――天明飢饉中の越前大野藩を例に」塚田孝(編)『身分的周縁の比較史――法と社会の視点から』清文堂出版、2010年、293–346頁。

身分的周縁の比較史―法と社会の視点から

身分的周縁の比較史―法と社会の視点から


 三都における貧民救済の実態は、それぞれの地域における社会構造との関連において既に多く検討されてきた。そこでみられる特徴はその他の地域でも認めることができる一方で、地域特有の貧民救済が発展する事態もあった。本論文は、北陸地方の小城下町である大野町(越前国大野藩、四万石)に注目し、そこでの貧民救済の実態を大野藩の社会構造と関連させつつ論じたものである。なお、本論文で利用される史料は大野町の町年寄御用留(元文5(1740)年〜明治2(1869)年)であり、特に天明の大飢饉時である天明4(1784)年時の史料が中心に検討されている。とりわけ、貧民救済の具体例として、主に非人を対象とした「御施行」と貧窮の町人をも対象にした「(御)救」が検討されている。
 大野藩における御施行は宝暦期よりその頻度が増え、毎年冬(12月と1月)に10回ほどおこなわれるようになっていた。しかし、天明の飢饉によって増加した貧民に対応すべく、町年寄の積極的な働きかけによって御施行の増加が進められた。また、御施行の主たる対象は非人であったが、彼らには酒屋や大野藩の非人集団である「古四郎」たちを通じて粥炊きが提供されていた。御施行に係る費用は酒屋が建て替えるものとされていたが、施行の期間が終わると町年寄が藩の元締役にその費用を全額請求し、それらが酒屋たちに還付される仕組みであった。非人を活用し、対象にした御施行という特徴は三都と共通する一方で、大野町ではそれが恒常的におこなわれていたという点は特徴的であり、その背景には日本海側にあるため冬に貧窮人が増えるという地理的条件があったことがわかる。また、御施行に際しての町年寄の積極性もまた特徴的であった。
 御施行とは異なり、大野町における(御)救は飢饉などの凶年時にしかおこなわれなかった。そして、その対象は御施行よりも広く町人をも含み、町人の飢人化防止という機能が期待されていた。また、(御)救を実施する主体が町人である場合は「救」であり、藩である場合は「御救」であるとして、厳しく区別されて運用されていた。たとえば、五人組や近隣レベルを超えた助け合いに対する圧力があった時期において、大野町ではそのレベルを超えた町人同士の救がおこなわれていた。そういった事態が起こりえた背景には、単に慈善的であったからというよりむしろ、御用商人と町人とを取り巻く高利貸しなどの経済構造があったという。また例えば、大火と凶作によって安永6(1777)年の大野町には多くの困窮人が出るという事態に陥ったが、このような非常事態においてのみ、藩による御救が町人による救とは厳密に区別されておこなわれた。このことは、藩が貧民救済に対してできるだけ支出をおさえようとしていたことの証左というより、大野町の社会構造に基づいた町人による貧民救済という一種の秩序を保持しようとしていたことをあらわすものとして捉えることができる。

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