民衆救済から医官教育の場へ:町泉寿郎「江戸医学館における臨床教育」(2013)

 最新の『日本医史学雑誌』(本号の目次はコチラ)から、町先生の医学館に関する論考をまとめました。医学館の目的の変化など、個人的にも気になっていた部分に言及してあり、非常に勉強になりました。

町泉寿郎「江戸医学館における臨床教育」『日本医史学雑誌』59(1)、2013年、17–33頁。

 幕府直轄の医学校として知られる江戸医学館については、これまで著者自身によっても多く検討されてきた。これまでの研究が医学館での学統に関するものが中心であったのに対し、本稿は一次史料に基づきそこでの臨床教育の実態を明らかにしようとするものである。
 著者による医学館の約100年の歴史区分によれば、前期(1765–1791)、中期(1792–1841)、後期(1842–1868)に分類できる。さらにそれぞれの時期は2つずつに分けられ、i:草創期(1765–1783)、ii:百日教育時代=興隆期(1784–1791)、iii:官立化当初=確立期(1792–1810)、iv:多紀元簡没後=停滞期(1811–1841)、v:天保改革以後=最盛期(1842–1856)、vi:多紀元堅没後=凋落期(1857–1868)と分類されている。多紀氏が医学館を創立した当初は、医学教育の対象は江戸の町医が中心で、その目的を民衆救済としていた。しかし、寛政3–4(1791–1792)年に幕府直轄化となると、その対象は若手の医官へとなり、民衆救済というより貧賤者の治療を通じた研鑽が目的となっていった。
 次に、官立化以降に着目し、医学館での臨床教育の実態が明らかにされる。岡田昌春(1827–1897)が書き残した「躋寿館遺事」あるいは『手伝介勤方申合帳』によれば、若い医官の臨床教育の場となった医学館では、ある患者の所見と処方を5〜6人の生徒に提出させ、その中で最も適切な回答を示した者がその患者の受け持ちとなり、その後の治療を担当したという。さらに、より明確な実験を目的として治療がおこなわれることもあり、たとえば、寛政12(1800)年5月には若年寄・堀田正敦が多紀元簡に対し「吐乳病児」への最善の処方について臨床実験を申し出ている。このような背景には、将軍家斉の子女が次々と夭折していたことがあったとも考えられる。
 また、天保14(1843)年頃のものと推定される『医学館方案』によれば、医師たちによる診療記録は詳しくつけられていたようである。それには、初診日、患者番号、患者情報(住所、身元保証人、戸主者)、診断責任者名・診断補助者名、患者除籍時のコメント、病歴・病状、処方名などが記されている。患者は江戸市中の町人だけでなく、葛飾郡足立郡などの近郊農村の百姓もいた。また、病歴・症状には、大体150〜180字前後の詳しい記録がつけられていた。