明治初年における官費での救助率の地域差:大杉由香「本源的蓄積期における公的扶助と私的経済」(1994)

大杉由香「本源的蓄積期における公的扶助と私的経済――岡山・山梨・秋田を中心に」『社会経済史学』60(3)、1994年、349–378、451頁。


 幕末から日清戦争までの時期に注目し、官費による公的扶助と隣保扶助などの私的救済がどのような関係にあったかを岡山・山梨・秋田の三県を事例に検討している。それらの検討を通じて、国が地域独自の救済方法に対して必ずしも抑圧的な態度を示したわけではなく、むしろ、それらを官救をうまく共存させようとしていたことを指摘している。なお本稿では、『日本帝国統計年鑑』(第2回〜第14回、1880〜1893年)をもとに、近代日本最初の救貧法と言われる「恤救規則」(1874(明治7)年)によっておこなわれた救済が中心に検討されている。
 岡山県は官救による救済人員が全国でも多い県であったが、著者はそれを経済的・社会的背景によって説明づける。すなわち、船便を中心とした交通網の発達により人々は農業以外の就業機会を容易に得やすくなっていたことなどが、村落共同体内部における近隣同士での扶助を弱めていったというのである。そのため、1880年代から90年代にかけて岡山は官救への依存を高めていった。実際、1886(明治19)年にはその官救の多さに国から警告を受けているが、それにもかかわらず、翌年の救助人員は2108人から2209人に増加している。一方、県の補助を受けて、岡山近郊の商人らによって1879(明治12)年に「岡山(民立)協力救貧院」が設立されたが、一年あたり多く見積もっても40名程度の救済であったことからも、地域における社会事業の限定性が窺える。結局、この救貧院はわずか7年で閉鎖された。
 それに対し、山梨や秋田では旧来の救済システムがそのまま継続され、官救は相対的に少なかった。東日本は概して恤救規則による救済比率は低いが、山梨県はまさにその典型と考えられる。すなわち、隣保や家族、伍組などの旧来の強い扶助関係が続いていたために、官救を抑制していたのである。事実、官救へ申請されたものでも、それ以前に伍組による救助があったことが記されているほどである。また、秋田でも村落共同体を支える上層の者たちが経済的に比較的安泰だったこともあり、地域の救済システムは継続した。たとえば、秋田の感恩講は講所有者の収穫米に依拠して救済をおこなっており、さらに観恩講は大蔵省からも多額の援助を受けていたため、講の比較的安定した経営が可能となっていた。この特徴は、岡山の救貧院が地方税や寄付金に依存していたために、松方デフレ期によって破綻したのとは大きく異なっている。

参考(恤救規則・官費遺児救済における13(12)年間の平均救済率:本論文353頁より)