医療行為・医療施設における藤原氏のヘゲモニー:増渕徹「平安中後期における貴族と医師」(2013)

増渕徹「平安中後期における貴族と医師」京都橘大学女性歴史文化研究所(編)『医療の社会史――生・老・病・死』思文閣出版、2013年、3–24頁。

医療の社会史―生・老・病・死

医療の社会史―生・老・病・死


 平安時代の医学史の先行研究と言えば、服部敏良および新村拓による一連の研究をあげることができるだろう。本論文はそれらに大きく学びつつも、医療における貴族の主体性というトピックに焦点を合わせ、中世日本の医学史研究に新たな知見を提示している。とりわけ、藤原実資(さねすけ、957–1046)、師通(もろみち、1062–1099)、忠実(ただざね、1078–1162)という三人の貴族たちの頃の医療および医療制度が検討される。
 平安中・後期という時期において、病気を患った藤原氏ら公卿たちは、かなりの程度自らの意思をもって医療選択をおこなっていた。その選択肢の中には当然、丹波氏や和気氏など高名な医師による治療が含まれていたが、他にも僧侶による祈祷や陰陽師による夢告への占卜も一つの選択肢として含まれていた。そして、患者たる貴族たちは、高名な医師による治療という理由でいつもそれを第一の選択肢にしたわけではなかった。たとえば、治安3(1023)年に裂傷を負った藤原実資が、夢の中で薬師如来の化身と思しき者から夢告を受けている。そこで示された治療法の一つは、医師・丹羽忠明にとってはその効力の判断がつかなかった。しかしながら、実資は占卜に基づき、その治療を試したのであった。つまり、医師の判断を最優先するのではなく、自ら主体的に治療を選択していたのである。
 治療の場において自ら主導権を握った藤原氏であったが、それは医療施設の支配においても同様であった。そのことは、平安時代の国家的な医療施設であった施薬院への関与にみてとれる。施薬院はもともと藤原氏中の困窮者を対象として、弘仁年間(810–824年)頃につくられたと言われる。その実質的な長官である施薬院使はさまざまな氏族から選ばれていたが、11世紀前期より、藤原氏は自らの家司、すなわち、藤原氏に仕えていた者に集中させるようになっている。ここには、藤原氏の政治的な意図を見いだすことができるだろう。つまり、この頃はまさに藤原道長(966–1028)が自家と天皇家の一体化を推し進めようとしていた時期であり、自家の権威を高めるための一手段として、氏族意識を生み出させ、かつ、国家的にも重要な医療施設である施薬院に目を付けたといえるのである。

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