議論政治の誕生による公議輿論という帰結、暴力による排斥という帰結:朴薫「一九世紀前半日本における「議論政治」の形成とその意味」(2010)

 とある近代日本史ゼミのアサインメントとして、『講座 明治維新』より日本および朝鮮における議論政治という政治文化について論じた文献を読みました。

朴薫「7 一九世紀前半日本における「議論政治」の形成とその意味」明治維新学会(編)『講座 明治維新 1 世界史のなかの明治維新』有志舎、2010年、191–219頁。

講座 明治維新 1 世界史のなかの明治維新

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 藩主あるいは藩政執行者の意見のみによって政治が進められるという状況は、一般藩士たちによる上書や身分を超えた者たちの間の会議という政治文化の醸成によって一変する。著者はこれを「公論の形成」あるいは「議論政治の形成」と呼び、1850年代頃の日本でそれらが全国的に広がったと論じる。本論文はその公論の形成過程について、19世紀前半の水戸藩の事例を中心に実証を試みたものである。同時に、公論が形成されることで活発化した政府の言論が、その後に進む可能性があった方向性を19世紀の朝鮮を事例に論じている。
 18世紀後半の藩政危機に面した水戸藩は、文化4(1807)年に七代藩主・徳川治紀によって藩主と一般藩士とを直接つなぐ政治ルートの構築が宣言された。つまり、役人以外の藩士たちに奉書を奨励し、これまでの下意上達とはまた別の政治ルートが生み出されたのである。しかし、八代藩主・斉脩の時代にはそのような上書を牽制するような措置もおこなわれ、この時期にはまだ奉書・上書の意義は大きくなかった。その後、斉昭が第九代藩主に就任すると治紀の頃のように再び上書を奨励し、水戸藩における「公論の形成」が進んでいくのであった。たとえば、天保元(1830)年に斉昭は前代に規制されていた上書を奨励することを触れだしている。
 天保期以降の水戸藩で形成されていった「公論」については、既に先行研究において上書奨励などの機能が注目されていたが、本論文はその特徴をより詳しく描き出そうとしている。第一に、上書が許容される政治の範囲について、藩主と家臣の見解の違いがみてとれる。そこで問題となったのは、一般藩士自らの職分に関係する以外のことにまで上書することができるかどうかであった。たとえば、天保2(1831)年から問題化した人事問題について、本来であればそれは郡奉行の職分を超えたものであると考えられていたが、郡奉行をつとめていた藤田東湖はその上書の正当性を主張している。つまり、人体の各部分が連続してあるように、藩政もまた自分の職分と関係しているのであるから、国家の大事に自らの意見を述べることは家臣の義務であると言うのだ。一方、斉昭はこれに対し、「職外之事」に対する郡奉行の関与を認めようとはしなかった。
 この時代の政治議論に関する第二の特徴として、このような上書に対する直書として、斉昭が藩主自らの意向をかつてないほど頻繁に藩士に伝えようとした点である。重臣たちは直書のあまりの多さに警戒心を強めることもあったが、斉昭は直書を続けたし、時には一般藩士に秘密書簡を送ることさえあった。また、大臣を退けて藩主自ら一般藩士さらには郡の小吏と面談することもあった。ここにおいて、水戸藩では下級役人や政府以外の人びとにまで藩政へ関与する可能性がひらかれたのであった。そして、このような特徴は水戸藩に限らず、萩藩や土佐藩など、同時代の他の藩でもみられたことが指摘されている。
 以上のような天保期の水戸藩における「公論の形成」に対し、朝鮮ではまた別の形で議論政治が形成された。日本とは異なる点としては、まず、政府内に国王や執政府を批判することができる言論機関、すなわち、言官という役職が存在していた点である。彼らは先代の王たちの偉績や歴代中国王朝の故事を引き合いに出しながら、現実の政治を批判したのである。また、政府外部でも政治議論がおこなわれ、官立の学校の儒生たちは国王に対して上書を頻繁におこない、国王はそれに応答することが求められていた。これらは15世紀後半には「小朝廷」と呼ばれ、17世紀前半には「公論所在」とも呼ばれていた。このような儒生による公論の形成は16世紀半ばより地方でも発展し、中央政府の言官と比肩しうるほどの影響力をもつことになった。
 日本や朝鮮で各々に発展した「公論」であったが、活発な議論政治が行き着くところは二つの可能性があった。ひとつが「正論観」という言葉であらわされるように、自らの言論の正当性を疑わず、相手側の言論を一方的に暴論として退けるようになることである。このとき、暴力の動員によって相手側が封殺されることが多く、たとえば、19世紀初頭の朝鮮におけるソウル門閥独裁がそれにあたる。ここにおいて、まさに公論を象徴するような言官たちの影響力がなくなったのである。同様に、公論が形成された水戸藩においても、安政の大獄に象徴されるように、暴力による「蛮論」や「姦論」の封じ込めがおこなわれた。一方、公論のまた別の行く末として、「公議輿論」の形成という可能性もあった。事実、幕末の水戸藩以外の日本では、19世紀になるとペリー来航時に老中・阿部正弘が全国大名の意見をうかがったことに示されるように、「公議輿論」が全国的に形成され、地方領主たちの中央政治に対する発言権を強めていくことになったのである。

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