第三の極としてのアメリカ人医療宣教師:長門谷洋治「近代日本における外人宣教医の研究」(1970)

 幕末から明治期における医療宣教師たちの活動をまとめた文献を読みました。当時やって来た医療宣教師たちの略歴や個々人に関する先行研究の紹介など、非常に有益なサーベイ論文であり、このトピックに関心をもつ者にとって必読文献でしょう。

長門谷洋治「近代日本における外人宣教医の研究」『日本医史学雑誌』16(1)、1970年、1–44頁。

 幕末期に英国公使館付の医師ウィリスが来日していたこともあり、日本で最初に入った西洋近代医学は英国流の医学であったと言われる。また、その後に明治新政府が国の正統な医学をドイツ医学に定めたことはよく知られるところであろう。本論文は、幕末・明治期に日本にやってきた西洋近代医学について、その第三の極として主にアメリカ人医療宣教師たちの活動に注目し、その全体的な動向を整理・分析している。なお、本論文は近世日本、インド、中国などへの医療宣教や個々人の略歴についても簡単に紹介されているが、以下では幕末・明治期の医療宣教師に関する考察部分をピックアップしている。
 幕末から明治期にかけて、日本に医療宣教師としてやって来たのは合計で39人であり、いずれもプロテスタントであった。出身国別ではアメリカが最も多く35人、イギリスが3人、カナダが1人であ、他の国の者はみてとれない。1846年にイギリス人宣教師ベッテルハイムが琉球にやって来て種痘法を伝授したことを除くと、近代日本最初の医療宣教師は安政6(1859)年に神奈川に到着したアメリカ人医師・ヘボンであった。この時期はまだ海外旅行者の数自体も多くなかったことからもわかるように、同時期に来日した医療宣教師は他にシモンズ(1859年)、シュミッド(1860年)、マッカーテー(1861年;ただし、初回来日時は医師として来日したわけではなかった)ら4人だけである。その後10年ほど医療宣教師は来日していないが、その背景には、当時の日本はまだキリスト教禁制の時期であったこと、また、アメリカにおいて南北戦争(1861–1865年)が勃発し、伝道の余裕がなかったことなどが考えられる。
 医療宣教師たちの来日が再開するのは明治5(1872)年で、翌年のキリスト教解禁も手伝って、それ以降は医療宣教師が多く日本にやって来ている。たとえば、カナダからの最初の医療宣教師はマクドナルドで、明治6(1873)年に来日し、明治9(1876)年から静岡病院の顧問となっている。イギリスからの最初の医療宣教師はフォールズで、明治7(1874)年に来日し、翌年には築地に健康社(英名:築地ホスピタル)を開いている。来日した数は1870年代にピークを迎えるが、その背景には、当時まだドイツ医学が完全に浸透しておらず、英米系の医療者たちがまだ活躍するチャンスがあったことなどが考えられる。しかし1890年代に入ると、その数は徐々に減少していくことになる。
 彼ら医療宣教師たちは聖書を前面に押し出すのではなく、医療という西洋文化を通じて、キリストの教えを民衆へ伝ようとした。そのような理念は、C.H. ロビンソンによる以下の言葉にもみてとれる。すなわち、「医療伝道の目的は二つある。一は病人を治療することと、非キリスト教国において医療を知らないものを訓練して同国人の病人を救うことができるようにすること。二は伝道者と協力して神の憐みを説き、福音を聞こうとしないものの偏見を打ち破ること」(1915年)と。

参考(来日宣教医一覧:本論文8–11頁より)