激動の織豊時代と治療対象の変化:田端泰子「曲直瀬玄朔とその患者たち」(2013)

田端泰子「曲直瀬玄朔とその患者たち」京都橘大学女性歴史文化研究所(編)『医療の社会史――生・老・病・死』思文閣出版、2013年、130–169頁。

医療の社会史―生・老・病・死

医療の社会史―生・老・病・死

 日本医学中興の祖とも称される曲直瀬道三正盛(1507–1594)は、戦国・安土桃山時代の医師の中で最も有名な人物の一人であろう。彼は足利義輝細川晴元の支援を受けたし、天皇からも「今大路」の屋号を賜り、死後には医官の最高位である法印にも叙せられている。一方、正盛の跡を継いだ二代目・道三玄朔(1549–1632)は、正盛ほど注目されることは多くないようである。玄朔は早くに両親をなくし、初代道三から養育されたが、道三正盛の養女を天正9年に妻にしたことにより、曲直瀬家を継ぐことになった。その後は『医方名鑑』、『常山方』など多くの医学書を著しているが、なかでも彼の診察記録である『玄朔道三配剤録』は、まさに織豊時代という激動の時代に医師として生きた様子を窺い知ることができる重要な著作である。そこで本論文は、『玄朔道三配剤録』のなかでも特に、玄朔が記した部分である天正3年から慶長13年(1575–1608年)までの記録を分析し、そこにみられる患者の変化を戦国時代という時代背景と関連させながら論じている。
 本論では『玄朔道三配剤録』が4つの時期区分に分けられている。第一の時期は天正3年から同11年まで(1575–1583年)で、このときはまだ玄朔は勉学と修行の時期であるとされる。実際、この期間にはわずか4件しか記録はなく、そのうち3例は他の医師の診療後におこなわれたものであった。しかし、天正10年に誠仁親王への治療が効をあげたことにより、玄朔は道三法眼を名乗ることが許され、その後の医師中における彼の存在感が増していく。第二の時期は天正11年から秀吉時代初期まで(1583–1592年)である。最初の数年は天皇家を中心に治療をおこなっていたが、天正12年から秀吉に接近し、天正14年には秀吉の「番医」(10人前後いた当直医たち)の一人となり秀吉とのつながりが密接なものとなる。さらに同年に医官として最高の法印に叙せられている。第三の時期は文禄元年から関ヶ原の戦いまで(1592–1600年)であるが、文禄元年の文禄の役と重なって、玄朔はこの年だけで秀吉家臣の従者など25人もの患者を診察している。また、この期間に玄朔は稀ではあるが庶民への医療もおこなっている点が特徴的である。第四の時期は慶長6年から同13年まで(1601–1608年)で、慶長3年に秀吉が死亡したのを受けて、再び玄朔と天皇家とのつながりが増していくことになる。また、治療の対象が広がっており、たとえば、天皇家はもちろん、皇族や公家、大名家、武士、寺僧や町人にも医療をおこなっている。さらに、玄朔はこれまでのように豊臣家とのつながりに依存するのではなく、新たに徳川家にも接近をはかったのであった。

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