本家・分家間の医療政策の対立と「御救」:野口朋隆「近世中後期、小城藩主の資質・役割と「生命維持」」(2013)

野口朋隆「近世中後期、小城藩主の資質・役割と「生命維持」」『歴史評論』754、2013年、48–61頁。

 佐賀藩支藩である小城藩は、近世中後期に藩財政の危機に直面していた。そのような窮状を打開するために、小城藩は山内と呼ばれる地域を中心に藩政改革を推し進めていく。この地域は、福岡藩領と境界を接することから、藩政においてかねてより重視されていた地域であった。たとえば、文化元(1804)年に新しく小城藩主となった鍋島直堯は、藩主の権威を領民に知らしめるために、文化12(1815)年より山内地域を巡見している。また、文化14(1817)年頃より小城藩は山内支配を強化するため、新たな職制を整備しようとしている。天保9(1838)年には山内を含めた領内の「遠郷」に対し「復古方目代」というかつての在住代官制を復活させ、目代たちの第一の職責として、百姓の家をつぶさないように心遣いをおこなうことを課している。
 このような藩政改革において、藩は民衆の生命維持に対しかなり積極的に施策を講じるようになった。そのような事態は、既に先行研究で多く議論されているように、「御救」をおこなうことによって、領主が領民の支配を正当化したという指摘と重なるところである。その御救は救恤や医療などを含むが、しかしながら、小城藩が民衆のためにおこなった救恤政策と医療政策は対照的な展開を遂げている。たとえば、寛政5(1793)年には不作によって山内地域より介抱を願い出る者があったが、藩はそれに十分に応えることができなかったことが記されている。このことからは、藩の救恤機能の限定性がみてとれる。一方、藩は民衆への医療提供には積極的で、文化6(1809)年以降、疫病の流行に伴い、山内地域に藩医の派遣を繰り返している。そして、それは安政年間まで継続されている。そこで派遣された医師が町医などでなく、藩士たる藩医であったことに鑑みると、これまで藩主やその家族の健康を守ることを主たる役割としていた藩医が、ここにおいて、民衆の命を守ることもその職務に加わったと考えることができる。ただし、こういった医師派遣のときは、その薬代を誰が負担するかが問題になる。実際、医師中から藩に対し、民衆から医師への謝礼を引き上げるように教諭してほしいと頼んだり、より安価で良質な大坂薬種の調達を願い出たりしている。そういった要望を藩は十分にくみ取り、医者の不利益をできるだけ回避するよう施策を講じている。
 このように、小城藩は医療政策という「御救」によって、藩主の権威を領民に知らしめようとした。しかし、天保期以降、その政策は佐賀藩の医療政策と対立し、自藩の権威が揺るがされる事態に直面するようになる。本家の佐賀藩では、西洋医学に造詣の深い藩主・鍋島直正によって、医学寮の設置(天保5年)や試験による医業免札制度(嘉永年間)などの医療改革が進められた。このとき、その対象は鍋島本家の医師だけでなく、分家の医師も含まれたため、当然、小城藩藩医たちも試験の対象となった。佐賀藩がこのような医療政策を進めた理由として、全領民に種痘を実施するための制度づくりをおこなおうとしていたことが挙げられる。つまり、種痘のためには匙医師といった高度な知識をもつ医師が必要であり、分家の医師たちをも動員するために、彼らの動向を把握しようと試みたのであった。しかし、それに対し小城藩は、自藩の医師が佐賀藩の統制下に入ることで医師派遣などに柔軟に対応できなくなることを怖れ、本家からの通達を拒否し続けた。結局、安政4(1858)年に小城藩は屈服し、佐賀藩に領内医師のリストを提出した。そして、安政6(1860)年の医師派遣を最後に、小城藩が自領内に医師を派遣することはなくなったのであった。

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