乳児保護についての医学知識と保護施設:南直人「母乳が政治性を帯びるとき」(2013)

南直人「母乳が政治性を帯びるとき――世紀転換期ドイツにおける乳児保護の実態と言説」京都橘大学女性歴史文化研究所(編)『医療の社会史――生・老・病・死』思文閣出版、2013年、259–283頁。

医療の社会史―生・老・病・死

医療の社会史―生・老・病・死

 ドイツにおける乳児保護への取り組みは、1860年代より民間団体が主導となって進められた。しかしながら、1890年代以降になると、乳児死亡率が他国より高いという問題を背景として、乳児の保護に対する国家的な関与が進められていった。本論文は、この乳児保護という活動に着目し、それが乳児死亡率と関連させられ、いかに政治的な問題となっていくかを論じたものである。
 世紀転換期のドイツでは、乳児死亡率は子どもを母乳で育てているかどうかと関連しているとされていた。ある者は人工乳の広がりが死亡率低下へとつながるとし、またある者は母乳こそが死亡率の上昇をおさえると考えていた。1890年頃のドイツでは、パストゥールらによる微生物学の発展を背景とし、細菌を除去した衛生的な人工乳の可能性が論じられている。しかしながら、1900年代になると、人工乳への楽観はみられなくなり、母乳哺育こそが乳児の死亡率を低下させると専門家は考えるようになった。たとえば、人工乳を支持していたベルリン大学医学部の小児科医オットー・ホイプナーも、この頃には母乳の価値を高く認めるようになっており、各自治体はそのような医学知識に基づきながら、母乳奨励のための支出を増やしていったのであった。
 こうして子どもの養育という家庭の領域に、医師や行政が入り込んでいくことになったが、同様にして乳児保護施設の運営主体も民間から半官半民へと変わっていった。それまでは、たとえば、民間で「乳児協会」および「子供保護協会」が1869年に設立され、困窮の母子を保護し、捨子の里親の斡旋などがおこなわれていた。また、1901年にシュミット・ガル財団が設立した「乳児救難所」は里親探しを手助けするのではなく、施設内で乳児の養育が試みられていた。しかし、1905年にベルリン市議会がそういった施設を半官半民のものへと改組し、乳児保護に行政が関与しはじめるようになる。それにより、母親を医師の監督下におき、栄養や養育に関することを無料で医師に相談することが可能になった。それと同時に、母乳での養育が奨励されることになったのである。そして、1909年には最新の医学知識と実践をもつ、アウグステ・ヴィクトリア皇后乳児保護院が、乳児死亡の防止を目的とした一大センターとして設立された。そこでは、人工乳の改善も進められたが、やはり、母乳哺育を推進することがより重視されていたのである。

関連文献

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特に、南直人「食をめぐる身体の規律化と進展――近代ドイツにおける栄養学と食教育」(3–24頁)


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