豪農と国学者・藩士の間の情報ネットワーク:岩田みゆき「幕末の対外情報と在地社会」(2010)

 とある近代日本史ゼミのアサインメントとして、『講座 明治維新』より幕末期の民衆による積極的な情報収集活動について論じた文献を読みました。

岩田みゆき「2 幕末の対外情報と在地社会」明治維新学会(編)『講座 明治維新 1 世界史のなかの明治維新』有志舎、2010年、53–83頁。

講座 明治維新 1 世界史のなかの明治維新

講座 明治維新 1 世界史のなかの明治維新

 幕末期、異国船が日本にやって来たという情報は幕府や諸藩だけでなく、民衆たちにも広く伝わっていた。とりわけ、幕末の政治的変革に揺さぶりをかけた豪農層は、自ら積極的に対外情報を収集し、そういった情報は「風説留(ふうせつどめ)」と呼ばれた。本論文は、下総国結城郡菅谷村(壬生藩領)の豪農・大久保家が収集した風説留を分析することで、彼ら豪農が幕府に独占されていたとされる対外情報をいかに収集し、自らのものとしていたかを明らかにするものである。
 今日、大久保家に残る風説留は和綴じにされて残っているが、それにはアメリカ・イギリス・オランダ・ロシア・中国・朝鮮・蝦夷地に関する内容が含まれており、在地社会において世界中の動向が把握されていたことがわかる。そのような対外情報収集を可能にしたのが、大久保家の名主・大久保真菅の幅広い交友関係であった。なかでも、土浦の国学者・色川三中に師事したこと、および、仙台藩儒者の勧めで水戸で砲術修行をおこなったことが大きかったと思われる。たとえば前者については、同じく色川門人である菅右京(長好)と大久保家が親しい仲にあったために、彼が筆写した外国書翰や幕府・藩内の公的文書を得ることができた。なお、菅右京は和学講談所に出入りしており、当時、幕府がその国学者に対外情報の諮問を行っていたために、右京は重要な対外情報を得ることができたと考えられる。また後者については、外国人応接掛の松崎万太郎の下にいた仙台藩儒者・根本兵馬や水戸の薬屋駿河屋から1853–1854年の異国船情報を入手している。とくに、根本兵馬からの情報ルートは大久保家のなかでも重要なものであったと考えられる。こうして大久保家は1852年から1867年の間に217件余の記録・文書を収集したが、そのうち対外情報が占める割合は75%(162件余)と非常に高かったのである。
 大久保家の対外情報に関する強い関心は、他家と比べても特徴的であるといえる。たとえば、駿州駿東郡原宿問屋年寄役をつとめた植松家の風説留(1849–1867年)のうち、対外情報が占める割合は25%(132/536件)で、相模国高座郡柳島村の村名主である藤間家の風説留(1853–1872年)で26%(48/184件)であることからも、色川一門を通じた大久保家の対外情報収集が非常に積極的であったことがわかる。さらに、大久保家の特徴として、海外の情報を広く体系的に集めていることがあげられる。たとえば、外国書翰の収集についてみると、大久保家はアメリカ・オランダ・ロシアからの書翰を網羅的に集めていることに対し、植松家はロシア書翰を中心に、藤間家はアメリカ書翰を中心に集めていたことがわかる。特に、植松家については、ロシア帆船の建造の場となった戸田村と、植松家の原宿が近いところにあったことが、ロシア関連情報の収集に植松家を方向付けたと考えられる。つまり、幕末期の豪農層は政治情報の収集を積極的におこなっていたが、そこには当然ながら関心の違いがあったのである。

関連文献

主体的に情報を集める民衆:高部淑子「日本近世史研究における情報」(2002) - f**t note


幕末維新期の文化と情報 (歴史学叢書)

幕末維新期の文化と情報 (歴史学叢書)

幕末日本の情報活動―「開国」の情報史

幕末日本の情報活動―「開国」の情報史

幕末民衆の情報世界―風説留が語るもの

幕末民衆の情報世界―風説留が語るもの