長野における朝鮮人参栽培開始時期をめぐって:斎藤洋一「信濃国佐久地方への朝鮮人参栽培の導入」(1995)

斎藤洋一「信濃国佐久地方への朝鮮人参栽培の導入」大石慎三郎(編)『近世日本の文化と社会』雄山閣出版、1995年、127–153頁。

近世日本の文化と社会

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 1984年のデータでは、日本の朝鮮人参生産率の70%は長野県の東信地方(佐久・小県・上田地方)で栽培したものが占めている。では、これほどまでに多くの生産量をほこる、佐久地方の朝鮮人参栽培はいつはじまったのだろうか。その開始時期をめぐっては諸説あるが、本論文はそのような説を史料と突き合わせながら検討することで、この地方ではじめて朝鮮人参の栽培が開始されるのは弘化年間であったことを指摘している。先行研究では、元文年間(1736–1741年)に人参の栽培があったと指摘されていたが、それはあくまで朝鮮人参とは別種の「ぬかご人参」であったと考えられ、誤りとされる。その後、天保年間(1830–1844年)に朝鮮人参の栽培があったことをうかがわせる記述が、小諸藩の家老・牧野成裕天保7(1836)年の日記にみてとれる。そこには、その5年前に朝鮮人参の栽培の着手が命じられた記されているが、結局、これがどれほど広がったかは知る術はない。しかし、『長野県町村誌』が明治10年前後の朝鮮人参生産量を示したところでは、旧小諸藩領の生産がほとんどみられないことから、その栽培が失敗に終わったと推測することができる。一方その資料からは、志賀村という佐久地方の一村における生産量がかなり多いことが読み取れる。明治11年に県に提出された「志賀村誌」には、その30年ほど前の弘化期(1844–1848年)に神津孝太郎という人物が朝鮮人参の栽培を開始したことが記されているが、そのことからも、長野(信濃国)における人参栽培は、志賀村を中心に佐久地方へと広がっていったと推測できるのであった。

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