第47回軍事史学会年次大会(2013年6月1日、於:陸上自衛隊衛生学校高等看護学院校舎)

【追記:2013/6/2】当初、彰古館の紹介も本エントリに記載していましたが、見やすさの関係上、別エントリに移しました→コチラ

 本日、第47回軍事史学会年次大会(2013年6月1日、於:陸上自衛隊衛生学校高等看護学院校舎)に参加してきましたので簡単にメモを。今回は大会の共通論題として「軍事と医療」が設定され、基調講演の秦郁彦氏(元日本大学教授)の「第二次世界大戦期における日本軍の医療」をはじめ、合計9題の共通論題報告がおこなわれました。なお、当日のプログラムは下記リンクからみることができます。

第47回軍事史学会年次大会、2013年6月1日、於:陸上自衛隊衛生学校高等看護学院校舎。
第47回軍事史学会年次大会・プログラム(PDF注意)

 鈴木紀子氏(国士舘大学博士課程)の 「陸軍による近代看護学の導入」では、日本にはじめて近代看護学が導入されたのはどこかをめぐって議論がおこなわれました。従来、近代看護の歴史研究では日本赤十字病院が明治20年有志共立東京病院看護婦教育所が明治17(1884)年(誤記がありましたので、訂正しました 2013/6/2)に近代看護を導入したのが日本初の事例であると考えられきました。しかし、そこでは女性の看護師ばかりが注目を浴びていたために、日赤より早く陸軍が男性看護師を導入したことが見落とされてしまっていたのです。そして、陸軍が明治16(1883)年に「明治十六年徴兵看病卒取扱手続」が制定されたことをもって、これを日本における近代看護学導入の嚆矢と鈴木さんは捉えるのでした。
 それでは、陸軍はなぜ看護師という職業に関心をもつに至ったのでしょうか。その理由としては、まず、遣欧使節団がヨーロッパの医療制度などを巡見したことをきっかけに、政府内で看護師という役割に関心が高まったことがあげられます。たとえば、勘定役徒目付であった福田作太郎(1833–1910)は、ナイチンゲールによる陸軍の改革を経た後の英国において、看護人の良し悪しと兵士の死亡率との相関関係があることを見聞きし、看護の意義を実感したのでした。また別の理由としては、戊辰戦争において治療だけでなく、治療後の看護を必要とする大量の戦傷兵が発生していたこともあげられます。実際、戊申戦争時に官軍には女性看護人が従軍していましたし、戦傷者をその後移送するときにも多くの看病人が動員されたのでした。このような経緯のもと、近代看護教育も開始され、明治16(1883)年に陸軍において看護師の位置づけが制度化されたのでした。

 淺川道夫氏(日本大学)の「幕末の軍陣医療について」 では、日本への軍陣医学のテクスト翻訳と軍陣医学が戊辰戦争時にどのように実地で利用されたかを議論するものでした。まず、幕末期に出版されるようになる軍陣医学関連の翻訳書について、それらを二つのタイプに大別し、説明がおこなわれました。一つは銃や刀剣などによる創傷に対する処置や肢体切断手術などについて記した外科・手術関連の医書で、もう一つは実地での利用を想定した救急・衛生関連の医書です。前者には大槻俊斎の『銃創瑣言』(安政元(1854)年刊、原著はオランダのモストの手によるもので、1835–1838年刊)や佐藤尚中の『斯篤魯黙児砲痍論』(慶応元(1865)年刊、原著はドイツのストロマイエルの手によるもので、1862年刊)などがあります。一方、後者には隈川宗悦の『陣中手療治』(慶応4(1868)年刊、原著はアメリカのスコットの手によるもので、1864年刊)や近藤真琴の『士官心得 外療一班』(慶応4(1868)年刊、原著はオランダのレースの手によるもので、1859年刊)などがありますが、その原著は専門の医学書というより「初等士官のための手引き」といった類の本で、隈川・近藤の訳書はそういった本から、いわば利用価値の高そうな救急医療などの部分を抜粋して訳したものでした。そのため、今日における両者の残存具合をみても、圧倒的に後者のような救急・衛生関連の医学書の残りがよく、一般の医師に多く普及したことがわかります。
 次に、それら西洋の軍陣医学が実際に戦場でいかに使われたが検討されました。明治新政府側では、ウィリス(1837–1894)やシッドールら英国人医師により軍陣医学の実践がおこなわれ、クロロフォルム麻酔法や四肢切断、縦断の摘出といった外科手術がおこなわれていました。さらには、関寛斎は奥羽出張病院の頭取として、戦傷者の治療にあたったことが「奥羽出張病院日記」(全5巻)に記録されています。一方の旧幕側では、ポンペに学び、将軍侍医もつとめ、戊申戦争後は大日本帝国陸軍軍医総監をつとめる松本良順(1832–1907)が、会津藩校・日新館において「療痍外伝」という軍陣医学の手引き書を作成し、元藩医や町医たちを中心に、約60人に対し治療法を伝授したのでした。彼らの多くはオランダ医学を学んだ医師たちで、この点からも近代的な軍陣医学の導入に蘭方医の果たした役割の大きさが推察されます。

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