国家目標という観点から読み直す明治6年政変と内務省設立:勝田政治「征韓論政変と大久保政権」(2012)

 とある近代日本史ゼミのアサインメントとして、『講座 明治維新』より明治6年政変(征韓論政変)に関する文献を読みました。

勝田政治「2 征韓論政変と大久保政権」明治維新学会(編)『講座 明治維新 4 近代国家の形成』有志舎、2012年、56–90頁。

講座 明治維新4 近代国家の形成

講座 明治維新4 近代国家の形成

 西郷隆盛板垣退助副島種臣ら五参議の辞職に終わった明治6年政変(征韓論政変)は、1960年代には、西郷ら保守派・士族軍事独裁派と大久保ら開明派・官僚独裁派の対立として描かれていた。その後、西郷が士族軍事独裁政権を必ずしも目論んでいたわけではなかったことが明らかになると、そういった見取り図は撤回せざるを得なくなり、現在までの研究では基礎的事実の再検討が進められている。本論文は、岩倉使節団と留守政府という対立構造を機軸に明治6年政変を読み解き、その岩倉使節団らが欧州訪問以来築き上げてきた国家目標を、明治6年政変以降の大久保政権の展開と関連させながら論じようとしている。
 明治6(1873)年10月に起きたいわゆる征韓論政変(明治6年政変)は、明治5・6年に政府に士族・農民からかけられた圧力を契機に発生したと言える。明治4(1871)年11月12日(1871年12月23日)から明治6(1873年)9月13日にわたる岩倉使節団の欧州訪問の間、留守政府はその調査報告を受ける前に各省庁の開化的な改革をおこなった。しかし、そういった諸改革は社会各層の反発を生みだし、明治5(1872)年より士族や農民による新政反対一揆が急増する。それに対し副島種臣西郷隆盛ら留守政府は徹底した弾圧政策を行うが、主に士族対策として打ち出したのが台湾出兵および朝鮮使節派遣論(征韓論)という外征策であった。前者は明治5(1872)年10月から評議されはじめその機運が高まるも、明治6(1873)年8月以降、台湾出兵論は西郷の朝鮮使節派遣問題に取って代わる。そこでの西郷はその問題を明確に士族対策として位置づけたのであった。しかし、同年9月13日に岩倉使節団が帰国すると、西郷使節派遣論は大久保利通を中心に強く批判される。というのも、岩倉使節団の欧州訪問の結論は、何よりもまず国政整備を進め、「民力」の養成をはかることが喫緊の課題であり、民力養成を阻む外征策をおこなう暇などないと考えたからである。結局、この政変は西郷らの下野によって幕を閉じ、同年10月末に新たに大久保新政権が誕生した。
 大久保は民力養成という国家目標を達成するため、内務省を中心とした改革を進めていく。そもそも留守政府が各省庁でおこなっていた諸改革は、岩倉使節団らにとっては「無統一な西欧化政策」として問題化されていたものであった。そのため大久保は総合的内政機関の設立を目論み、明治7(1874)年1月には内務省の機構・職制が公布され、それが具現化されることになった。内務省は「民産ヲ厚殖シ民業ヲ振励」することを目的とし、「国家安寧」・「人民保護」・「人民産業ノ勧奨」を目的とする勧業行政、「地方ノ整備」を目的とする警察行政、「戸籍人口ノ調査」を目的とする地方行政の三行政を統轄した。つまり、欧州調査によって設定された、民力養成という国家目的に適った改革であったのである。このように、明治6年政変からのちの大久保新政権による内務省設立までは、岩倉使節団における国家目標という観点から、一本筋の通ったストーリーとして描き出すことが出来るのであった。

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